アランと一緒に四国遍路。

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3月14日 83番 一宮寺(いちのみやじ)
PM1:50 83番 一宮寺(いちのみやじ)。
大宝年間(701~703)に義淵僧正(ぎえんそうじょう)が創建したという由緒ある寺。
讃岐一の宮の田村神社が建てられ、神社の別当寺となる。
行基が堂字を修築して寺号を一宮寺に改めた。
後に大師が聖観世音を刻んで本尊として安置、このとき宗派も真言宗に改宗。
延宝7年(1679)に、高松藩主・松平頼重によって田村神社別当職を解かれ、神社は分離した。
境内は田村神社と隣接しており、仁王門は路地を挟んで田村神社の鳥居と向かい合っている。

一宮寺(いちのみやじ)西門。
一宮寺 西門

一宮寺(いちのみやじ)本堂。
元禄14年(1701)に松平家により再建された。
本尊の聖観音像は弘法大師作といわれている。
一宮寺 本堂

地獄の釜とも呼ばれる薬師如来祠。
楠の根元にある薬師如来の小さな祠。
薬師如来を祀ってある石堂のその台座の下には地獄へ通じる穴があり、ここに頭を突っ込むと地獄の釜の音が聞こえると言われている。
心がけの悪い人が頭を入れると、石の扉が閉まり、頭が抜けなくなると言い伝えられている。
薬師如来祠


3月14日 81番 白峯時(しらみねじ) 82番 根香寺(ねごろじ)
午前中、雪が降ったり吹雪いたりしていたのが嘘のように晴れて日が差してきた。

PM12:00 81番 白峯時(しらみねじ)
五色台の中の白峯山(337m)の中腹にあって、崇徳上皇の陵墓、白峯御陵がそばにある。
高麗門形式の七棟門を入ると、茶堂、御成門、勅使門があって門の中には客殿、庫裡、納経所がある。
さらに左へ進むと宝物館や不動堂、宝庫などの建物が並び、正面が勅額門、ここを入れば崇徳天皇の廟所・頓証寺殿。
本堂は勅額門の手前からの右投を登りつめたところにある。

頓証寺殿。
中央に上皇宸筆の六字名号、向かって左に鎮守の相模坊大権現、右に上皇の念持仏十一面観音をまつる。
門にかかる「頓証寺」の勅額は後小松天皇が応永21年(1414)に奉納したもので、重要文化財。
保元の乱により讃岐に配流された崇徳上皇は、現在の坂出市にあった雲井御所(くもいのごしょ)に3年、木丸殿(このまるでん)に6年間幽閉され、長寛2年(1164)崩御。
遺体は白峰で荼毘にふされ、山腹の白峰御陵に葬られたが、以後たびたび都に変事が続くので、朝廷は白峯時に上皇の霊を祀る御廟所として頓証寺殿(とんしょうでん)を建立した。
また、多数の宝物や荘園を献じ、塔頭21坊を数えるほど隆盛したが、天災や兵火のため焼失。
崇徳上皇崩御の3年後、西行法師が御廟前に詣で、上皇の御霊と歌を詠み交わしたという伝説があり、上田秋成「雨月物語」にも語られている。

参道左手には西行法師廟参の石像と歌碑が立っている。
十三重塔表参道の途中にある2基の石塔で、高さ約5m。重要文化財。
崇徳上皇の菩提を弔うために源頼朝が建てた万茎の供養塔の一部とも言われているが、左の塔には弘安元年(1278)、右の塔には元亨4年(1324)の銘があり、時代が少し下る。
付近には古い石塔や石仏も多く残っている。

国の重要文化財の七棟門(しちとうもん)。
高麗門の左右に2棟の塀を連ね、棟が合わせて7棟ある。
白峯時 七棟門

本堂までの92段の石段。
本堂までの石段

白峯時(しらみねじ)本堂。
参道の右手、頓証寺殿前から石段を登ったところにある。
現在の建物は慶長4年(1599)、生駒一正の再建によるもの。
本尊は智証大師作の千手観音で、人々を種々の災難から救う「身代わり観音」として信仰されている。
本堂

PM12:30 82番 根香寺(ねごろじ)
五色台一つ、青峰山中にあり、深い緑に包まれている。
大師は蓮華谷の香木で千手観音菩薩を刻み、本尊として安置し千手院を建立。
木の根が長い間、芳香を放っていたことから2院を総称して根香寺と号した。
後には後白河上皇の祈願所となり99の末寺を持つ巨刹として栄えたが兵火により焼失。
江戸時代に高松藩主松平頼重公によって再興された。

根香寺(ねごろじ)仁王門。
根香寺 仁王門

根香寺 仁王門

仁王門をくぐると参道は石段で下り、再び上って右に大師堂、左に本坊、納経所がある。
根香寺 境内

根香寺 境内

大師堂は本堂へ向かう参道の右側にあり、明治から大正にかけて建てられたもの。
お掌と参道の間には、1本の木に5色に染め分けられた葉がつくという珍しい「五色のもみじ」の木がある。
境内

境内

本堂への石段。
本堂への石段

根香寺(ねごろじ)本堂。
石段を上ると回廊型式の本堂。
本堂前の回廊はコの字型 に"万体観音堂"があり、全国各地 の人から奉納された観音様の小像 が3万体以上並んでいる。
根香寺 本堂


3月14日 80番 國分寺(こくぶんじ)
AM11:00 80番 國分寺(こくぶんじ)。
80番 國分寺(こくぶんじ)仁王門。
松の枝が横に伸びる立派な仁王門。
仁王門の屋根瓦には葵の紋が入っている。
國分寺仁王門

國分寺仁王門

國分寺仁王門

天平13年(741)聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する詔勅を出された。
弘仁年間(810~823)に弘法大師が堂字や本尊を修復し霊場に定めた。
國分寺

國分寺(こくぶんじ)境内と本堂。
みごとな枝ぶりの松が茂る広々とした境内。
全域が讃岐國分寺跡として国の特別史跡にされている。
寺域から創建時代の唐草文平瓦、蓮華文丸瓦、重弧文平瓦などの瓦が出土し、資料館に展示されている。
境内の左右に四国八十八ヶ所の石仏が並び、参道の右手には、十五の礎石が残る七重塔跡や金堂跡がある。
閻魔堂と鐘楼の間を抜け、弘誓橋を渡ると鎌倉時代再建の本堂がある。
國分寺境内と本堂

國分寺(こくぶんじ)本堂。
入母屋造りの本堂は前面と背面に桟唐戸が付いた鎌倉後期のもの。
本尊の千手観音菩薩、銅鍾とともに国の重要文化財。
國分寺本堂

納経所と一緒の大師堂。
大師堂へは納経所の中からお参りするようになっている。
中には線香や土産物などの売り場もある。
納経所と一緒の大師堂

國分寺の七福神。
香川県には、さぬき七福神があり、國分寺の七福神は紅一点の弁財天。
徳・福・美にご利益があるといわれている。
「古代インドの川の神様で豊穣の女神と言われ、知恵、芸術、音楽等、更に七福神唯一の女神として、財運、福徳を与える神として大変ご利益あらたかであります。」
弁財天の前の立て札にはと書かれています。
國分寺の七福神

國分寺の七福神

仏足石。
お釈迦さまのおみ足。
これを撫でて祈願するとさまざまな御利益が頂けます。
仏足石

AM11:40参拝を済ませ昼食休憩。
朝からお天気が悪く気温も下がり途中でミゾレのような雨が降り、参拝を済ませた頃から吹雪になった。
南国四国、春3月に吹雪きになり参拝の人たちや地元の人も驚いていた。
暑いのがの苦手なアランがきっと雪を降らせたのだろう。
アランちゃんの仕業だねー。とみんなに言われてしまった。

讃岐うどんのとても美味しいというお店に連れて行ってもらった。
店の前に行列が出来ている。
吹雪の中、寒い、寒いとガタガタ震えながら並んでいると、後に並んだ地元の人に、
「お遍路さんは、これも修行だよ。」と笑われてしまった。
そして、何処からきんさったね?と訊ねられたけど、寒くと思うように口が開かない。
見かねて、Oさんが福島県と新潟からお遍路さんにきんさったんよ。と言ってくれた。
それを聞いた地元の人が、
「新潟からなら、こんな雪慣れているがやろ。」と笑って言ってくれた(-_-;)
なに言うがやね。いくら雪に慣れてても寒いのは寒いきに。
まさか、南国に雪が降るなんて思わないがやろ~。。。
(土佐弁、こんなでよかったき?)

3月14日 79番 天皇寺(てんのうじ)
AM10:35 79番天皇寺(てんのうじ)。
弘法大師巡錫のおり、日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの八十場(やそば)の泉の近くで霊気を感じ、泉のほとりにあった木で十一面観音菩薩を刻み、堂字を建立。
阿弥陀如来、愛染明王とともに祀り、妙成就寺摩尼珠院(みょうじょうじゅまにじゅいん)と名付けた。
保元の乱(1156)で敗れた崇徳上皇が讃岐へ配流され、長寛2年(1164)8月、崩御。
八十場の霊泉に御遺骸を約20日間浸したという言い伝えがある。
その後、二条天皇が上皇の冥福を祈り崇徳天皇社を建立し、天皇寺と改名した。
明治の神仏分離で崇徳上皇社と天皇寺は二分され、崇徳上皇社は白峰宮となった。
天皇寺

山門の代わりの石碑。
石碑

石碑

天皇寺鳥居。
崇徳天皇社の神宮寺であったので山門はなく赤い大きな鳥居が立っている。
駐車場から鳥居をくぐると参道正面に白峰宮、左手に本堂と大師堂が棟続きに並んで立っている。
天皇寺鳥居

白峰宮。
崇徳天皇の御霊を慰めるために建立されたという神社。
上皇崩御の際、毎夜のように東方に怪星が現れたので3代後の二条天皇がここに崇徳天皇社を建立したという。
その後、後嵯峨野天皇により荘園などが奉納された。
白峰宮

天皇寺(てんのうじ)境内。
天皇寺境内

天皇寺(てんのうじ)本堂。
本堂は江戸時代、松平家によって再建された。
本尊の十一面観音像は、8月の御開帳大般若法要の時のみ開帳される秘仏。
天皇寺本堂


3月14日 77番 道隆寺(どうりゅうじ) 78番 郷照寺(ごうしょうじ)
AM9:16 77番 道隆寺(どうりゅうじ)。
寺の開基は奈良時代と古く、この地一帯は和気氏の荘園だった。
桑畑で夜毎怪光を放つ桑の木があり、領主・和気道隆(わきみちたか)が矢を放つと乳母が倒れていた。
嘆き悲しんだ道隆は、桑の木で薬師如来の小像を刻み、御堂を建て供養した。
後に道隆の子朝祐(ちょうゆう)が伽藍を建立、道隆寺と名付けた。
その後、唐から帰国した弘法大師が薬師如来像を刻み、胎内に道隆の小像を納め本尊とした。
丸亀京極藩、京極左馬造公は幼少より盲目だったが道隆寺の薬師如来に祈願したところ全快したという。
「目なおし薬師さま」と呼ばれ全国から眼病平癒祈願に訪れている。

道隆寺(どうりょうじ)仁王門。
道隆寺 仁王門

道隆寺(どうりゅうじ)本堂と観音像。
参道沿いから本堂脇、裏門にかけて西国三十三ヶ所、四国八十八ヶ所など、日本全国の観音像270余体が立ち並んでいる。
道隆寺 本堂と観音像

道隆寺(どうりゅうじ)本堂。
本尊の薬師如来像が胎内にもう一つあることから腹ごもり薬師、二体薬師とも呼ばれ、50年に一度開帳される秘仏。
星曼荼羅図(重要文化財)を始め、智証大師の刻んだ五大尊(不動、降三世、軍茶利などの各明王)や弘法大師の筆によるといわれている五大尊画など文化財が多い。
道隆寺 本堂

道隆寺(どうりゅうじ)大師堂。
本堂に向かって右手、多宝堂と並んで立っている。
大師堂前に弘法大師とその前にひざまづき両手を差し伸べている衛門三郎の像がある。
道隆寺 大師堂

AM9:50 78番 郷照寺(ごうしょうじ)。
弘仁6年(815)弘法大師42歳の時、自ら尊像を刻み厄除けを請願したことから「厄除けうたづ大師」として信仰を集めている。
当時は真言宗で「道場寺」と称されていたので、ご詠歌には「道場寺」名が残っている。
鎌倉時代に時宗の開祖、一編上人により中興され、室町時代には守護大名の庇護を受け栄えたが戦国時代の兵火により伽藍を焼失。
寛文4年(1664)高松藩主・松平頼重により再興された。
その際、真言宗とともに、一遍上人にちなんで時宗の両宗派を奉持。
八十八ヶ所中で唯一の宗派を越えた寺。
寺名も道場寺から「郷照寺」と改められ、病気平癒の祈願寺として松平家代々に庇護され、本堂や客殿「観海楼(かんかいろう)」などが建築されている。
郷照寺

郷照寺(ごうしょうじ)本堂。
約400年前、江戸初期に再興され、平成11年に大修理が行われた。
屋根の形は、札所では珍しい奈良様式の本堂。
本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代の作で、県指定有形文化財。
郷照寺 本堂

郷照寺(ごうしょうじ)本堂。
郷照寺 本堂

郷照寺(ごうしょうじ)。
石段を登り大師堂へ。
郷照寺 境内

郷照寺(ごうしょうじ)大師堂。
本堂脇の石段を登った所に大正時代に再建された大師堂。
お堂の中に入れるよう開放してあるので大師像を間近で参拝できる。
郷照寺 大師堂

万躰観音洞。
参道脇の地下のお掌に3万体の観音像を納めた万躰観音洞。
万躰観音洞

観音像。
観音像

郷照寺(ごうしょうじ)庭園。
庭園の築山にある樹齢400年というホルト(モガシ)の巨木は文禄3年(1594)本島の信者が中国から苗木を持ち帰ったものといわれている。
樹高26m、幹回り約4mという大きさは日本有数で県指定自然保存物。
郷照寺 庭園

郷照寺 庭園

本堂前に6本の手を持つといわれる青面金剛と3匹の猿が座す庚申堂が立っている。
庚申待ちのために徹夜でおこもりをする堂字で、四国霊場でも珍しいもの。
人間の体の中にいる三尸(さんし)という霊物が庚申の夜、人が眠っている間に体から抜け出て、天に昇り命を司る天帝に罪を告げるという。
そのため、更新の夜、人々は庚申堂にこもり眠らず語り明かすという民間信仰があった。

*この話を聞いたとき、どこかで聞いたことがあると思った。
随分前に読んだ坂東眞佐子さんの本の中に似た話があったと帰ってから思い出した。

タヌキの神様「常盤明神」
昔、郷照寺に臨阿という心の優しいお坊さんがいました。
臨阿は都の大きなお寺に招かれて行ってしまうことになったのです。
そんなある日、臨阿は犬に追われていた子ダヌキを助け、傷の手当をし、大事に世話をしてから放してやりました。
臨阿が都に行ってから、戦争や飢饉で寺は荒れ、悪人がたびたび住みつこうとしました。
ところが、いつもタヌキのお化けが現れ、悪人たちをこらしめたといいます。
それからは、近くの信心深い人々によって寺は守られ、お参りする人も絶えませんでした。
以来、タヌキが寺を守ってくれたということで「常盤明神」という寺の守護神として祀られるようになってということです。
そのせいか、このあたりでは犬を飼うと災難が起こるという言い伝えがあるそうです。

9日目 3月14日 76番 金倉寺(こんぞうじ)
3月14日 
朝食を終え、着替えをしWちゃんとフロントで清算を済ませロビーでAさん、Oさんを待つ。
奥州のおじさんたちを探したが、朝早くに、こんぴら宮へ参拝と言っておられた。
参拝後、出発なさったのだろう会えなかった。
AM8:00少し過ぎ、Oさん運転の車到着。
風が冷たく気温が低い。荷物を積みに外へ出ると寒さでガタガタ震えた。
係りのお姉さん、ホテルの人たちが黄色いハンカチを振りながら見送ってくれた。

AM8:30
76番 金倉寺(こんぞうじ)。
弘法大師の姪を母に持つ、天台宗寺門派の開祖、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)の生誕の地として知られる。
智証大師の祖父・和気道善(わきどうぜん)が奈良時代初めに自分の名をとった善道寺を建立。
その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺を真似て伽藍を整備し、寺名を金倉寺(こんぞうじ)と改めた。
金倉寺

金倉寺(こんぞうじ)。
金倉寺

訶梨帝堂(かりていどう)。
本堂左手の智証大師ゆかりの鬼子母神堂(訶梨帝堂)。
智証大師5歳のとき、訶梨帝母尊(かりていぼそん)が現れ、大師への衛護を伝えたという。
訶梨帝母尊(かりていぼそん)とは鬼子母神のこと。
500人の子供の母親でありながら、いつも人の子供をさらって食べていたので、釈迦如来は鬼子母神が最も可愛がっていた末っ子を隠し、子供を失った母親の辛さを教え、後に仏の一つに加えたという。
訶梨帝堂

金倉寺(こんぞうじ)本堂と境内。
広い境内に楠の大樹が茂る。
正面の小高いところに本堂、右手に常行堂、客殿、庫裏、左手に訶梨帝母堂(鬼子母神)、弘法大師と智証大師の二人を祀る大師堂、鐘楼がある。
金倉寺本堂と境内

金倉寺(こんぞうじ)本堂。
本尊の薬師如来は穏やかな表情で見る者の心を和らげてくれる。
金倉寺本堂

願供養念珠(がんくようねんじゅ)。
願いを掛けながら引いて回すと叶うといわれる大きな念珠。
願供養念珠

金倉寺(こんぞうじ)大師堂。
中央に智証大師像と共に弘法大師像も安置している。
お二人は「讃岐の五大師」に数えられており「大師」の称号を得るということは、僧にとって最高の名誉。
「讃岐の五大師」には、お二人の他、弘法大師と同じ佐伯氏出身の道興(どうこう)、弘法大師の弟子、法光(ほうこう)、修験道の理源(りげん)の五人をいう。
金倉寺大師堂

乃木将軍妻返し松。
乃木希典(のぎまれすけ)の妻、静子夫人が会いに来たが、決して会おうとはしなかった。
途方にくれた夫人が、松の木の下で佇んでいたという「乃木将軍妻返し松」
明治31から34年(1898~1901)善通寺第11師団長として乃木希典が着任、金倉寺(こんぞうじ)の客殿で暮らしていた。
当時生活をしていた客殿の4室に、愛用の軍帽、肖像画、静子夫人からの手紙、収集していた石など、さまざまな遺品が保存されている。
通常は非公開。
乃木将軍妻返し松


75番 善通寺(ぜんつうじ)
PM3:40
五岳山(ごがくさん)誕生院(たんじょういん)総本山 善通寺(ぜんつうじ)
弘法大師誕生の地。真言宗善通寺派の総本山。
高野山の金剛峯寺、京都の東寺と並ぶ弘法大師三大霊跡のひとつ。
広大な寺域は東西二院に別れている。
唐から帰朝した大師は、先祖の追悼供養のため父・佐伯善道(さえきよしみち)の邸跡、大師生まれ育った地に寺を建立。
大師が恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から密教の全てを伝授された、唐の青龍寺を模し、6年の年月をかけて弘仁4年(813)に七堂伽藍を完成させた。
寺号は父の名前に、山号は西院の背後にそびえる香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の五峰にちなんでいる。
寺は東院と西院とに別れ、東院には、金堂(本堂)・五重の塔・釈迦堂・五社明神などがある。
西院は、誕生院と呼ばれ大師個人にまつわる空間で、仁王門を入ると正面に御影堂が建ち、地蔵堂、本坊、宝物殿などがある。
御影堂は、礼堂、中殿、供養殿、奥殿の四殿からなり、大師は奥殿で誕生したといわれている。

済生橋。
済生橋

済生橋を渡り寺内に入る。
西院から正寛門望

東院・五重の塔。
江戸末期から明治初期に再建された。
五重塔

東院・薬師堂(本尊)。
東院 薬師如来石碑

東院・金堂(本堂)。
貞享年間(1684~87)の金堂再建の際。運長が刻んだ本尊の薬師如来像、弘法大師が弘仁4年(813)に刻んだ薬師如来像は、胎内仏として祭られている。
善通寺本堂

西院・御影堂(大師堂)。
善通寺大師堂

西院・御影堂(大師堂)の額。
「弘法大師誕生の場」と書かれている。
御影堂(大師堂)の額

西院・御影堂地下の戒壇巡り。
約100mの真っ暗闇の中、左側の壁を伝って1周する。
「悪業のある者は出られない」といわれている。
中央の弘法大師が生まれたという場所に祭壇があり、再現した大師のお声を聞くことができる。
戒壇巡り

西院・回路。
回路より大師堂望

西院・回路。
回路

西院

西院

西院

西院・正寛門。
正寛門

正寛門より済生橋。
正寛門より済生橋

済生橋。
済生橋

72番 曼荼羅寺 73番 出釈迦寺 74番 甲山寺
PM2:35 72番 曼荼羅寺(まんだらじ)
曼荼羅寺(まんだらじ)境内と本堂。
山門をくぐると川が流れ、石橋を渡ると左手に水場から大師堂、正面に本堂。
曼荼羅が創建されたのは、6世紀末の推古期、佐伯家の氏寺として建立された。
当時は世坂寺(よさかじ)と称していたが、大同2年(807)、唐から帰国した弘法大師は亡き母の菩薩を弔うため、青龍寺を模して伽藍を建て、大日如来を刻んで本尊とした。
この時、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界(たいぞうかい)の曼荼羅も安置し、寺名を曼荼羅寺と改めたと伝えられている。
曼荼羅寺

曼荼羅寺(まんだらじ)本堂。
本堂の中は、仏教の宇宙観を具体化した曼荼羅空間が広がっているという。
「曼荼羅」とは、真言密教の根本を成すもので、大日釈迦を中心に輪を描く仏の世界を体系的に図示したもののこと。
それにならい、本堂の中心には大日如来を安置している。
本堂の格天井の内陣には天空を意味する二十八宿の星座、外陣には法界の壮厳花である暈繝(うんげん)彩色の花が描かれている。
曼荼羅寺本堂

曼荼羅寺(まんだらじ)大師堂。
曼荼羅寺大師堂

曼荼羅寺(まんだらじ)境内。
曼荼羅寺境内

民家の間を通り約500m。徒歩5分。
PM3:00 73番 出釈迦寺(しゅつしゃかじ)。
我拝師山(がはいしざん)を背にした山門。
鐘楼門をくぐると正面に本堂、右手に大師堂。
出釈迦寺山門

寺名の石碑と弘法大師像。
出釈迦寺寺名の石碑と弘法大師像

出釈迦寺(しゅつしゃかじ)本堂。
出釈迦寺本堂

我拝師山の中腹に建つ奥の院。
奥の院遥拝所にある石碑には、釈迦如来と天女の姿と捨て身の大師の図が刻まれている。
奥の院の「捨て身ヶ嶽」へは寺から1.8km上がったところにあり、釈迦如来、不動明王、大師像が安置されており、讃岐平野が一望できる。
奥の院禅定

弘法大師7歳の時、
「仏門に入って多くの人々を救いたい。この願いが叶うならば釈迦如来よ、現れたまえ。もし、願いが叶わぬならば、一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と断崖に身を投じた。
すると釈迦如来と天女が現れ、大師を抱き止め、「一生成仏」と誓願成就を告げられた。
大師が身を投げた岩場は捨身ヶ嶽禅定(しゃしんがたけぜんじょう)と呼ばれている。
奥の院遥拝所

奥の院の身を投げた断崖「捨身ヶ嶽」(しゃしんがたけ)。
出釈迦寺(しゅつしゃかじ)境内から、急坂を50分ほど上がった先の捨身ヶ嶽禅定(しゃしんがたけぜんじょう)は、弘法大師が虚空蔵菩薩像を刻み、求聞持法(ぐもんじほう)を修めた場所であることから求聞持院(ぐもんじいん)の院号がついた。
虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える法を求聞持法といい、記憶力を得られるという。
虚空菩薩像を拝むと学業成就や物忘れにご利益がある。
奥の院捨身ヶ岳禅定

74番 甲山寺(こうやまじ)山門。
甲山寺(こうやまじ)は甲山を背にして田畑の 所々に民家のある田園風景の中にある寺。
近くには弘田川が流れ、この辺りー帯は弘法大師が子供の頃に遊ばれた大師の故郷であるといわれている。  
本尊薬師瑠璃光如来に因んで名付けられた瑠璃光橋を渡ると山門。
門をくぐると正面、 石段を上ったところに本堂、右手に庫裏が建っている。
甲山寺山門

甲山寺(こうやまじ)本堂と境内。
本堂左の石段を上ったところに鐘 楼、大師堂があり、大師堂横の岩窟は間口2.5m、奥行3mほどあり、奥に弘法大師が自ら刻んで安置したと伝えられる毘沙門天石像が安重されている。
甲山寺本堂と境内

甲山寺(こうやまじ)本堂。
弘仁12年(821)、嵯峨天皇の勅願により満濃池(まんのういけ)修築の別当に任ぜられ、工事の成功を祈願して薬師如来を刻む。
難工事を3ヶ月で完成させ、朝廷から贈られた報奨金のの一部で甲山寺を建立、薬師如来を本尊とし安置した。
甲山寺本堂

本堂から左手の石段を上ったところにある大師堂。
黒衣をまとった大師像が祀られている。
甲山寺大師堂


Wちゃん感激の記念撮影。
納経を済ませ駐車場へ行くと、隣に止まっていたバスへ団体さんの一行。
その中に、Wちゃんがお鈴を落とし拾って下さった(十夜ヶ橋で会った)若いお坊さんがおられました。
Wちゃんは感激しやはりご縁があったのねと、若いお坊さんの手をいつまでも握り締め、何度もなんどもありがとうと言っていました。
何日も会わないで、またひょこり何処かのお寺で会う。
こんな不思議なご縁を何度も体験しました。
Wちゃんとお坊さん

若いお坊さんの一行と別れ、善通寺へ。
甲山寺から約1,5km。車で直ぐでした。

71番 弥谷寺(いやだにじ)
昼食、休憩後、PM1:50
71番 弥谷寺(いやだにじ)。
弥谷寺(いやだにじ)のある標高382mの弥谷山は、死霊が帰る「仏の山」として民間信仰を集めてきた。
地元では家に死人が出ると死霊を背負う格好をして水場まで登り、降ろして帰る風習が残っている。
弥谷寺(いやだにじ)門前にあるお茶屋さん。
(石段の下、左手)
弥谷寺

参道の坂道を上がると仁王門があり、さらに300段近い石段を上がると岩窟に埋もれたような大師堂へ。
300段近くの石段

石段

仁王門から「賽の河原」が金剛拳大菩薩像まで続く。
石段

境内の風景。
境内を見下ろす

弥陀三尊磨壁仏。
像高約1mの阿弥陀三尊が刻まれている。
舟形光背をバックに温和な表情をたたえている。
弥陀三尊に念仏を捧げると極楽往生が約束されるという。
弥陀三尊磨壁仏

岩壁の磨崖仏(まがいぶつ)。
大きな岩盤に磨崖仏の彫られた「比丘尼谷」
岩壁の磨崖仏

弥谷寺(いやだにじ)本堂。
大師堂のある境内から、さらに右側へ行き170段の石段を登ったところ。
弥谷寺 本堂

弥谷寺(いやだにじ)本堂。
弥谷寺 本堂

大師堂への石段。
大師堂への石段

獅子の岩窟。
切り立った崖に見える丸窓は明り取りで弘法大師の学問所跡。
弘法大師が幼年時代、獅子窟で修行を積み、後に千手観音を刻み、唐から持ち帰ったとされる「五鈷鈴」を収め、寺号を剣五山千手院弥谷寺と改め、また、一面の怪岩・奇岩・仏像・梵字等を彫刻したと伝えられてた。
獅子窟

大師堂入り口。
入り口で履物を脱いで大師堂内へ上がる。
大師堂入り口

大師堂内。
座ってお経を上げる団体のお遍路さん一行。
大師堂内

岡野大先達さん。
Oさんのお知り合いの岡野大先達さんと一緒に記念撮影。
渋く、品のあるとても素敵な大先達さんでした。
岡野大先達


PM2:20参拝、納経を済ませ72番へ。

70番 本山寺(もとやまじ)
69番から約4,5km。PM12:28

本山寺(もとやまじ)仁王門。
唐風の絵模様の彫刻のある、どっしりとした八脚門。
久安3年(1147)の建造で国の重要文化財。
本山寺 仁王門

本山寺(もとやまじ)境内と本堂。
戦国時代、長宗我部氏が寺に乗り込んできたとき兵を阻止した住職が斬られてしまう。
さらに別の兵が本堂に押し入ると脇仏の阿弥陀如来の右肘から血が流れていた。
以来、阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、今でも右手にその時の傷が残っているといわれている。
本山寺 境内と本堂

明治末期に建立された五重塔。
明治43年、盲目の住職、頼富実毅(よりとみじっき)は八十八ヶ所巡りの59番、国分寺を出て歩く途中で目が見えるようになり、その恩に報いるため堂字の復興を執り行った。
五重塔

国宝の本堂は寄棟造りの一重の本瓦葺き。
弘法大師が平城天皇の勅願により大同2年(807)に一夜のうちに本堂を建てたといわれている。
本尊の馬頭観音菩薩と脇仏の薬師如来と阿弥陀如来を一刀三礼で刻み安置したと伝えられている。
馬頭観音を本尊としているところは八十八ヶ所中唯一ここだけ。
本山寺 本堂

大師堂。
棟札(むなふだ)から弥勒堂(みろくどう)あるいは祖師堂(そしどう)とも呼ばれていた。
本山寺 大師堂

護摩堂。
護摩堂

境内の2頭の馬の像。
頭を寄せ合い、一頭が鼻先を傾けいるほぼ、実物大の馬の像。
実物大二頭の馬の像


参拝を済ませ、昼食兼休憩。
釜揚げうどん(550-)はとっても美味しかった。
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