アランと一緒に四国遍路。

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知ったかぶり その6
弥谷寺(いやだにじ)。
昔から死霊が行くと信じられている弥谷寺のイヤという言葉は、恐れ、慎むという意味で、敬うのウヤ・オヤなどと同義の言葉。
徳島県の剣山麓の祖谷山(いややま)のイヤも同じ言葉で、奥深い山村、吉野川上流地方の人は古くは死霊のこもる山というイメージを持っていた。

弥谷寺は弥谷山の中腹にあり、その境内の至るところに岩壁、岩穴がある。
弥谷山の頂上は海抜約400m、寺のある辺りは約300mの樹木の茂った場所にある。
仁王門から大師堂まで行く途中の参道の両側は賽の河原と呼ばれ、地蔵が祀られ、小石が無数に積み重ねられている。
急な石段を登り切ったところには役行者(えんのぎょうじゃ)の石像があり、その左手に大師堂の岩窟がある。
大師堂は暗い岩窟の中に設けられ、昼でもなお薄暗い。
大師堂を出て本堂に行く途中にも岩穴があり、その辺りから本堂までの間を比丘尼谷(びくにだに)またはお墓谷と呼ぶ。
岩壁には弥陀三尊(みださんぞん)が彫られ、これは一遍上人が刻んだものだという。
比丘尼谷の入口にも岩穴があり、その前には岩壁を伝って流れる水滴を溜めるための水たまりがある。
弥谷山へ参りにきた人はここで経木(きょうぎ)に水をかけて死者の菩提を弔うことになっている。

この辺りから本堂までの間には多くの墓が並んでおり、途中の岩肌には五輪の石塔が無数に刻みこまれている。
本堂の本尊は千手観世音菩薩。
弥谷参りの風習はこの山麓のみならず、かなり広い範囲にわたって行なわれている。

弥谷参り。
人が死ぬと死者の霊をこの山に伴っていくのが弥谷参りという。
死後七日目、四九日目、ムカワレ(一周忌)、春秋の彼岸の中日、弥谷寺のオミズマツリの日などに、死者の髪の毛と野位牌(のいわい)などを持っていく。

三豊郡旧荘内の箱浦(詫間町)では弥谷参りを死後三日目、または七日目に行なうことになっている。
七日目の仏事のことを一一夜(ひといちや)という。
死者の髪の毛を紙に包んだものと死者が生前に着ていた着物とを持って血縁の濃い者が四人、六人といった偶数の人数で参る。
はじめに墓へ行き、
「イヤダニへ参るぞ」
と声をかけてから、その中の一人は後向きになって背に負う真似をする。
そして背負う真似をしてから、8kmばかりの道を歩いて弥谷山まで行く。
弥谷山へ着くと、比丘尼谷の洞穴の中へ髪を納め、野位牌を洞穴の前へ置いてから水をかけ、着物は寺へ納める。

洞穴の前には小さい小屋があり、彼岸の中日やオミズマツリの日に経木に戒名を書いてもらい、その経木に櫁(しきみ)の枝で水をかける。
その後、一行は本堂・大師堂とお参りをしてから帰途につく。
山を下りて仁王門の前にある茶店に上り、一行は会食をする。
会食がすむと、後を(寺の方向)振り返らないで家に帰る。

一行が弥谷参りに行って留守になると、葬家の者は墓へ女竹(めだけ)を四本持っていき、四つ又にして25㌢四方の板で棚をかける。
その棚にふきんをつるし、白糸を通した木綿針をふきんに刺し白糸を垂らしておく。
弥谷参りから帰ってきた人は、すぐに家へは帰らず、まず墓へ行き、鎌を逆手に持ってその棚をこわし、後を振り向かずに葬家へ帰ってくる。そこでそろって本膳につく。

弥谷参りに偶数で行くというのは、帰りに死者の霊がついてくるのを防ぐためであり、帰りに仁王門の傍の茶店で会食をしてから後を振り向かないで帰ることや、家に帰ってから本膳で会食をするというのは、死霊との食い別れを意味する。
墓に設けた棚をこわすのも、死霊が墓に留まるのを嫌がり、再び死霊が家に帰ってくるのを防ぐための風習。
死んでから後に何年かたって、彼岸の中日やオミズマツリに弥谷山へ行くのは死霊に再会するためのものであるかもしれないが、死して間もない頃に行なわれる弥谷参りの行事は、明らかに死霊を家から送り出すための行事であった。

七十一番の弥谷寺参詣をおもな行事として、四国八十八ケ所寺の中で七十二番の曼荼羅寺、七十三番の出釈迦寺、七十四番甲山寺、七十五番善通寺、七十六番金倉寺、七十七番道隆寺を巡ることが春秋の彼岸の中日に行なわれているが、香川県の西部一帯ではこれを七ケ所巡りと呼んでいる。
七か寺の中で弥谷寺参りだけは欠かせないところから見ると、この行事は新仏のあった家では死者の霊を送り出すため、そうでない家では弥谷山にこもっている死霊に会いに行くためのものであった。
このような寺々をめぐる風習が、やがては四国八十八ケ所遍路の風習にまで広がっていく一因になったといわれている。

埋め墓と弥谷山。
弥谷山は死霊のこもる山であるが、それをはっきりと物語っているのは山麓地方から付近一帯に行なわれている墓制がある。
今ではそれは両墓制(りょうぼせい)と呼ばれ、死体を埋める埋め墓と死後一年とか二、三年目に建てられる参り墓(石碑)との二つの墓を有する墓制として知られているが、どちらかというとそれはそれほど古くない墓制であった。
死者の霊は弥谷山にこもるのだから埋め墓だけがあればよいので、石碑を建てる参り墓などは不必要なのだ。
それがもっともよく現われているのは、香川県三豊郡三野町の弥谷山麓の埋め墓にある。
芝生(しばり)の埋め墓は人里から200mほど離れた山の傾斜面にあるのだが、試みに山の下からその埋め墓を眺めると、埋め墓は点々として際限もなく上に向って伸びていて、そのずっと先の辺りは弥谷山の頂上である。
死者の霊はなんということなしにひとりでに弥谷山に上っていくようになっている。
この辺りでは参り墓を作る風習が土地によっては昭和の初期に始まったということを聞いたが、それは他地方からの影響で、もともと参り墓など作る必要はなかったといえる。
この地方に限っていえば、両墓制などというものがいかに新しいものであるかがよくわかる。

弥谷山には死霊の行く山としての信仰が深く、付近の住民にとってはもちろん四国の霊地を遍歴する者にとっても、どうしても立ち寄らねばならぬ霊場なのだ。

参考文書「巡礼と遍路」より。

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