アランと一緒に四国遍路。

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高野山から帰路
高野山奥の院へ、無事四国遍路を巡り終えた報告。
奥の院は撮影禁止。
Aさん、Oさん、Wちゃんと並んで最後の般若心経を唱えた。
心静かなひと時。
いろんなことが思い出された。

Aさん、Oさんに付いて行くことだけで精一杯の最初の頃。
見よう見真似のお作法。
お杖を忘れて大急ぎで取りに戻ったこともあった。
Wちゃんは、お鈴を落としたりしたけれど、そのお鈴はWちゃんの元へちゃんと帰ってきた。
室戸岬の休憩所で、頂いた御影を忘れたことに気付き引き返したこともあった。
回ってきた八十八箇所の出来事、風景が懐かしく思い出される。

昼食休憩を済ませ、胡麻豆腐の有名なお店に連れて行ってもらった。
宅配が出来ると言うことなので、送ってもらうことにした。

大阪へは4時頃到着予定だったが、道路が空いていて伊丹空港に2時過ぎに着いた。
Wちゃんは伊丹から東京。PM5:00の便。
息子さんが羽田まで迎えに来てくれ、東京の息子さんのアパートに泊まり翌日、高速バスで福島へ。
私の帰りの便は、PM6:00。

伊丹まで送ってもらい、お別れ予定だったけど、早く着いたのでお茶を飲んで行こうと言ってくれた。
パーキングに車を入れ、2Fのスタバーへ。

「良い旅をさせてもらってありがとう。
帰ったら、いい土産話が出来るわ。友達にお遍路の話を聞かせてやるよ。
haruちゃん、新潟から日帰りできるんだから、福島へ遊びにおいで。
パパさんと一緒に蕎麦を食べに来てよね。
いい人たちと一緒に旅が出来て、本当に良かったよ。」
Wちゃんが何度も言ってくれた。

そろそろAさんOさんとお別れの時間。
haruちゃん、又、四国へおいで。待っているからね。
お大師様が待っているよ。
手を振りながら、AさんOさんがパーキングの方へ行った。

ありがとうございました。
11日間、お世話になりました。
帰り道、気をつけてください。
さようなら。
私、また四国へ行きますから!
直ぐに行きますから!

東京と新潟、搭乗手続きは別々。
Wちゃんともここで、さよなら。
電話するからね。元気でね。
気をつけてね。。。

ほんの先まで、みんな一緒だったのに。
その時過ごした場所、交わした会話は、そのときだけの時間。
どんなに楽しい時間も、必ず終わりの時が待っている。
一期一会。
素敵な人たちに会えた。
大切な時間を共有できた。

伊丹空港で家用の西利の漬物を買って、搭乗手続きをして待合室へ。
昨日の今頃は4人一緒だったのに、今は一人。
旅に出れば、帰る日がやってくる。
始めがあれば、必ず終わりがあるのだから。

PM6:00の便が1時間送れ。
窓の外が暗くなり、雨が強くなってきた。
Wちゃんは羽田に着く頃の時間。
Aさんたちは、どこら辺だろう。
もう、四国へ渡っただろうか。

ユニバーサルSからの修学旅行の中学校、2校と一緒になった。
中学生たちが楽しそうに騒いでいる。
引率の先生が、静かに!と何度も注意をしていたが賑やかな声にかき消されていた。
天候の関係なのか、6時の便が結局1時間半遅れ、出発が7時半になった。

新潟に着いたのは8時半。
荷物を受け取り出口に向かうと、出迎えのガラス戸越しにあーちゃんpapaの姿があった。
持っていた菅笠を振って見せると、
「ばーか」と言っていた。


「2006年・春の遍路記」
3月16日に11日間の旅から帰って来て、秋遍路に出かけるという今頃、ようやく書き終えた。

帰りの飛行機の中、秋になったら遍路に出よう。と決めていた。
今度は、歩き遍路。
本当に一人で歩けるのか不安だけれど、期待の気持ちの方が勝っている。
大丈夫。
いつも人に頼ってばかりいられない。
楽をして、願いを叶えて下さいというのは虫が良すぎる。

秋の遍路旅に向けて準備中。
2006年秋遍路。
9月28日ー10月7日。
9月29日、1番霊山寺さんから23番薬王寺さんまで回る予定です。


四国で優しさを沢山頂いてきました。
出会った人、全てに感謝しています。
ありがとうございました。

南無大師遍照金剛
南無大師遍照金剛
南無大師遍照金剛
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高野山3。
女人高野山。
高野山は長い間、女人禁制の山でした。
女性のお籠り堂の役割をしていたお堂で、女性はここから山内に入ることは出来ず、険しい女人道を経て奥の院参りをしていました。

高野山への道は次第に整備され、やがて高野七口が完備した。
その入り口には、必ず女人堂が設けられた。
空海が高野を開いて以来、明治5年(1872)まで千年間、高野山は女人禁制で、女性の参拝者は女人堂に参籠して、奥の院を遥か彼方に拝んで山を降りていた。

女高野山

女人堂。
女人堂

女人堂

高野山

高野山

高野山

六角経堂。
六角経堂

金剛峯寺園内

園内

金剛峯寺


金剛峯寺 高野山2
真言宗総本山  金剛峯寺。

金剛峯寺の名称は弘法大師が、金剛峯楼閣一切瑜玲伽瑜砥経の深意を象徴するものとして命名され、高野山一山の総称。
文禄2年(2593)豊臣秀吉が亡母の菩提のために建立、更に文久3年(1863)再建されたのが現在の建物。
明治2年、金剛峯寺と改称されるまで青巌寺と呼ばれていた。
大主殿(東西54米南北63米=和歌山県重要文化財)のほか、別殿・新別殿・奥琴新書院・茶室 阿字観道場・経蔵・鐘楼・後庭に伝燈国師廟・護摩堂等が並び輪奥の美をなしている。
現在の金剛峯寺は一つの独立した形をなし座主の住寺であるが、高野山全体を総轄する伝統はそのままここに残され、又、高野山真言宗の総本山として一切の宗務を司どる宗務所があって全国及び海外の末寺四千ヶ寺の行政を統べ、1000万大師信徒の信仰の中心となっている。
(高野山・金剛峯寺公式サイトより)

金剛峯寺

金剛峯寺

山門。
山門

金剛峯寺主殿。
金剛峯寺

金剛峯寺

金堂。
金堂

金剛峯寺

大塔の鐘。
天正16年(1547)に改鋳されて以来400年間、伽藍の法会時刻を報ずるほか、明け暮れの六つどき、昼の1時、夜9時、11時と:日夜山内に音を伝えている。
この鐘は直径2m以上あり、日本で4番目の大きさを誇ることから「高野四郎」とも呼ばれている。
大塔の鐘 高野四郎

根本大塔(こんぽんだいとう)。
形容及び内部の装厳など真言密教の根本理念を表徴することから根本大塔と呼ばれる。
高さ約50m、虚空にそびえる丹色の姿は壮麗の一言。
根本大塔

御影堂(みえいどう)。
弘化4年(1847)、紀伊徳川公が壇主となり再建。
本尊には真如親王が写し給える弘法大師の御影を祀る。
御影堂

御影堂

不動堂

根本大塔。
根本大塔


高野山の伝説。
一つ。高野にハブなし。
昔は高野山にも大蛇のような毒蛇がたくさんいたそうで、参詣人を見つけると襲いかかってきた。
これを聞いた大師はたいへん嘆き、竹のホウキでこの大蛇を封じ込め、再び竹のホウキを使う時代になれば封じを解くと約束された。

二つ。高野に臼なし。
豊臣秀吉が、割りがゆを所望した時、住職とのやりとりで、
「山に臼はないのか」と言う秀吉に住職は、
「はい。女人禁制の山に杵はたくさんありますが、臼はひとつもありません」と答え、機転に満ちた対応に秀吉は上機嫌だったとか。

三つ。姿見の井戸。
奥の院の参道、中の橋の橋詰に汗かき地蔵をお祀りしているお堂がある。
その右側にある小さな井戸は姿見の井戸と呼ばれ、この井戸をのぞき込んで自分の顔が映らないと3年以内に死んでしまうといわれている。

四つ。高野の大雨。
開創以来、魚肉を禁じていたので、肉食愛好の異人さんが登山すると大師はお山を洗い清めた。
また、毎年御影供の翌日には不浄を流し清めるために大雨が降るとか。

五つ。玉川の魚。
玉川のほとりで小魚を捕り、串刺にして焼いて食べようとしていた山男を見つけた大師は、小魚を買い取り、清流に離してやった。
すると、死んでいたはずの小魚がすいすいと泳ぎはじめたので、男は殺生の罪を悔い、魚を捕るのをやめた。
小魚の斑点は串の跡といわれ、今でもお山の人はこの魚を食べない。

六つ。杖が藪。
大師が京からの帰り道、それまで杖に使っていた竹の棒をもういらないと思い、道端にさしこんだ。
その逆さまの竹の棒がやがて根をつけ枝をはり、葉をつけて大きな竹藪になった。

七つ。覚鑁坂(かくばんざか)。
奥の院参道の、中の橋を渡ってすぐさしかかる石段は、覚鑁坂と呼ばれている。
途中で転ぶと3年ともたないとか。
そのために、ここの石畳は42(死に)を越えるという意味で43段になっている。

11日目 3月16日 高野山1
遍照尊院の宿坊は広く、売店や食事をする大きなお部屋、お風呂場、本堂、と曲がる度の廊下に矢印が出ている。

Wちゃんと私。AさんとOさんは廊下を挟んだ向かいの部屋。
部屋には、小さなガスストーブが1台あるのみ。
庭には昨日の雪が残っていたし、山の中、部屋を閉めても寒さで暖まらない。
お風呂で温まった体も、部屋まで戻る頃には冷えていた。
夜は長袖のTシャッツを着て、トレパンを履いたまま布団に潜り込んだ。

朝6時から本堂でお勤め、と言われていたのに。。。
wちゃんと私、寝坊してAさんの呼ぶ声で飛び起きた。
時計を見ると、6時過ぎていた(-_-;)

大急ぎで顔だけサッと洗って本堂へ行くと、宿泊されていた人たちはとっくに本堂に集まっていた。
後の方へ回り、AさんOさんの横に座り、お勤めにはなんとか間に合った。

お勤めを済ませ、ご住職からありがたいお話を聞かせて頂いた。
その後、グループごとに広間で朝食。
胡麻豆腐がとても美味しかった。

8時に遍照尊院を出て、高野山へお参り。

AM8:10 遍照尊院前。
お世話になりました。お勤めに遅刻して済みませんでした。。。
遍照尊院

遍照尊院

高野山。
弘法大師信仰の中心聖地。
弘法大師が入定されている御廟を中心とした奥の院は。壇上伽藍と並ぶ高野山の二大聖地。
一の橋から中の橋を経て奥の院御廟まで、約2km(徒歩40分)にわたって参道が続いている。
巨木が生い茂る木立の両側に、武田信玄、上杉謙信などそうそうたる戦国武将や江戸時代の諸大名の墓碑が立ち並ぶ。

参道には、数々の不思議な伝説が残っている。
中の橋の地蔵堂には灼熱地獄の苦しみを衆生の身代わりとして受け、いつも汗ばんでいる汗かき地蔵がある。
その隣、姿見の井戸は覗き込んで姿が見えない人は3年以内に死ぬといわれている。
覚鑁坂(かくばんざか)の石段は転ぶと3年しか命がもたないので、「死に」を超えるように43段ある。

数十万の供養塔や墓碑が並び樹齢500年を越す巨木が生い茂る参道。
高野山参道

墓碑

墓碑

墓碑

墓碑

参道

大きな優しい顔をしたGRとお坊さんが朝散歩をしていた。
朝散歩のワンコ

参道

御廟橋のたもとの川端に、納経所と14体の金仏が立ち並ぶ水向場があり、ここで煩悩を洗い流し奥の院へ向かう。
高野山納経所

御廟橋。
この橋まで大師が迎えて下さるといわれている。
これより先は弘法大師御廟と燈籠堂がある霊域なので飲食、撮影禁止になっている。
僧侶が一の橋と御廟橋を渡るとき、必ず礼拝することに習い、橋を渡るときは行きも帰りも一礼をする。
奥の院へ


高野山と宿坊・遍照尊院(へんじょうそんいん)
世界遺産となった聖地・高野山。
「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された高野山は、金剛峯寺をはじめ、117の寺院が立ち並ぶ真言密教の根本道場。
四国八十八ヶ所を巡拝し、結願後に奥の院を参拝するのが一般的とされている。

東西約、5,5km、南北2,5km。
西端に豪壮な大門があり、その対極の東端に奥の院がある。

高野山は恐山、比叡山と ともに「日本三大霊山」といわれ、空海による開創以後今日まで、真言宗の総本山としてだけではなく、 宗派を超えた霊場として多くの人々に信仰されています。

PM4:30 一山の総門 高野山大門。
宝永2年(1705)再建 高さ25.1m。    
高野山大門

高野山大門

高野山大門

高野山大門

高野山大門

高野山大門

大門の金剛力士像(法橋運長作)。
大門の金剛力士像

高野山案内図。
高野山案内図

高野山案内図

PM4:50 宿坊・遍照尊院。
寺院・宿坊 遍照尊院
宿坊 遍照尊院

遍照尊院 中庭。
宿坊 遍照尊院

宿坊 遍照尊院

遍照尊院 本堂。
遍照尊院 本堂

庭には昨夜の雪が残っていた。
宿坊 遍照尊院

お部屋の中。
宿坊 部屋の中

Wちゃんと一緒の部屋。
食事はとても美味しかったし、お風呂も綺麗でした。
しかーし、部屋は寒くてガスストーブを一晩中付けたまま休みました(-_-;)

白鳥IC=鳴門・淡路経由・和歌山IC
AM10:40 大窪寺を後に高野山へ向かう。
R377から白鳥大内ICへ。
香川から徳島市内を走り鳴門市。
徳島市内に入ると3番金泉寺、2番極楽寺、1番霊前寺がこっちだよと言われ車の窓から振り返って見ていた。

鳴門海峡を渡り淡路島を通過。
あ~今、淡路島を通っている。ここにタックさん、くうらさんがおられるんだ。。
四国へ入ってから、淡路島のくうらさんと何度か携帯でお話していた。
徳島まで会いにきてくださると言ってくれたけど、結局時間がなく逢えなかった。
この次、いつかタックさん、くうらさんともお会いできる。
淡路島へ来るときがあるかもしれない。
そのときは、よろしくお願いします~。
陽ちゃん、幸ちゃんと遊ばせてください。

淡路島は綺麗な青空だった。
遠ざかる四国の山並みを何度も何度も振り返る。
この次はいつだろう。
ここを通るのはいつになるだろう。
この風景、忘れないから。

PM12:30
明石大橋サービスエリアで昼食休憩。
お土産売り場と広い食堂。
四国で毎日食べていた讃岐うどん。
うどんを頼んだらワカメが入っていた。
四国ではワカメは入っていなかったのに、橋を渡ったら、うどんのトッピングが変わっていた。
明石大橋サービスエリア

食堂の大きな窓から、通ってきた明石海峡、明石大橋が見えた。
明石海峡

明石大橋

PM3:10 和歌山ICを降りR24を走り紀ノ川の麓で休憩。
紀ノ川サービスエリア

PM3:40
紀ノ川

PM3:50
紀ノ川

ここから山越えし高野山へ。

結願
アランの供養に遍路に出た旅。
いつか必ずアランに会えますように。
お友達のワンコたち、病気や苦しみも怪我もなく、いつまでも元気でしあわせに暮らせますように。
病気のお友達が1日も早く治りますように。
願い続けた旅だった。

長いようであっと言う間の10日間。
車の中から、歩き遍路さんの姿を見かけると、いつの日かこの道を歩いている自分の姿と重なった。

四国へ来なければ絶対に会うことのなかった人たち。
目には見えない大きな力で生かされ、導かれていることを実感した。

どの寺だったかの境内で、大きな荷物を傍らに置き、休んでおられた若い女性のお遍路さんとお話しをしたことがあった。
未だ20代の娘さん。
野宿や宿坊に泊まりながらの旅。
人間関係に悩み、親とも上手くいかず、ありったけの貯金をおろし遍路旅に出たけど、何日かするとお金も心細くなり、もう帰ろうと何度も思ったそうだ。
疲れた足を引きずりながら、なんで自分はこんなことをしているんだろう。何故今、ここにいるのだろう。
何のために歩いているのだろう。
疲れと、足の痛さと空腹と心細さでもうダメだと思ったとき、お遍路さん、と声を掛けられ、暖かいおにぎりとペットボトルのお茶を貰ったときは涙が止まらなかったと言っていた。

もう少し休んでから又歩きます。
どこまで行けるかわからないけど、ここで引き返したら何も変わらないから。
今は、四国へ来てよかったと心から思えるようになりました。
と明るい笑顔を見せてくれた。
車で回っているのが恥ずかしくなったときだった。

私ね、今度は歩いて回るよ。
何年掛かっても、歩いて回る。
絶対にもう一度、四国へ来るから!

私の決意をAさん、Oさんが黙って頷いてくれた。

沢山の優しさを頂いた四国旅。
人はこれほど優しくできるのだろうか、初めのころは驚きの連続だった。
四国では、自分たちの代わりにお参りしてもらうのだからとその賽銭の代わりがお接待と言う形になったのだとOさんがわかり易く説明してくれた。

「お接待」とは、遍路に対して地元の人々が食べ物などをプレゼントすること。
昔は自動販売機もコンビニもなかったので、こうした施しによって、遍路はかろうじて生き抜くことができた。
米やちり紙も、重要な「お接待」。
一方、地元の人々にとってみると、遍路は弘法大師の身代わりでもあり、また自分たちに代わって遠方の札所でお参りをしてくれる、宗教的な価値をもった存在であった。
したがって、彼らが差し出すものは、難渋している者に対する援助であるだけではなく、仏に対する喜捨でもあった。

一般社会で企業が顧客に対して行う、いわゆる「接待」には何らかの見返りの期待がこめられているが、四国遍路における「お接待」は無償の行為なのだと。
現代的な感覚でとらえると、何のつきあいもない、何の利害関係もない他人から、何かをもらったり、泊めてもらったりというのは、日常考えられないこと。
それも、ちょっとしたお菓子とか、余った果物などというならまだ理解の範囲内だが、時には「現金」を差し出される。

行き暮れた旅人や、きつい修行に取り組む人に対して「援助」をする、「支援」をするというのは、人間同士が助け合うという基本的な姿。
しかし、「遍路」というものの歴史的な経緯を調べてみると、「お接待」には二重の意味があるようだ。

一つは、「弱者」に対する支援であって、言ってみれば助け合いの延長にある「施し」。
もう一つは、「自分自身の代わりにお大師様にお参りしてほしい」という意味での賽銭の寄託。
また、苦難の道を歩んで来訪する遍路は弘法大師の化身とも解釈されるため、上の二つの気持ちの混じり合った形として、弘法大師へのお布施として差し出すという意味づけもあるのだと。

人に対する感謝の気持ちと、おかげさまでの気持ちから成り立っているのだと思った。
「ありがとう」感謝の気持ちを忘れない。
「おかげさまで」感謝の気持ちを忘れなければ、心が優しくなれる。
いろんなことを学んだ四国旅だった。
アランも時々側に来てくれたようだったし。

結願 88番 大窪寺(おおくぼじ)
3月15日 大窪寺に近づいてくると、歩き遍路さんの姿が目に付くようになった。
長い道のり、いろんなことがあっただろうに、満ち足りた表情を浮かべ歩いておられた。

AM10:00 結願(けちがん)の寺、大窪寺に到着。
海抜787mの矢筈(やはず)山の東腹の山中にある。
縁起によると、行基が草庵を建て、後に唐から帰朝した弘法大師が奥の院となっている胎蔵ヶ峰(たいぞうがみね)の岩窟で求聞持法の秘法を修め、薬師如来像刻んで本尊とし堂字を建てた。
唐の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から授かった三国(インド、唐、日本)伝来の錫杖を納めて結願寺と定めたと伝える。
早くから女性の入山が認められ「女人高野」と呼ばれ栄えた。 

結願寺大窪寺。
結願 88番 大窪寺(おおくぼじ)

仁王門。
仁王門

境内。
大窪寺 境内

境内。
右の石像が弘法大師幼少の真魚像。
境内

大窪寺 本堂。
本堂の奥殿には本尊の薬師如来と三国伝来の錫杖が安置されている。
普通、薬師如来は薬壷を左手の持っているが、大窪寺の薬師如来はホラ貝を持っている珍しいもの。
ホラ貝でさまざまな厄難病苦を吹き払うという。
本堂

本堂の大きな額。
八十八番目、最後の寺で般若心経を唱えたとき、感極まり涙が流れ止まらなかった。
本堂

大師堂。
本堂手前から石段を登り、地下の内拝口から入る。
内部は八十八ヶ所の本尊の全てが祀られ、八十八ヶ所のお砂踏みができる。
大師堂

宝杖堂。
結願をしたお遍路さんが奉納した沢山の金剛杖と菅笠が置かれている。
毎年春分の日、3月21日と8月20日に紫灯護摩供(さいとうごまく)で焚き上げられる。
宝杖堂

納経所。
ご宝印の他に結願証を頂く。
納経所

結願証。
結願証

境内にて。
結願の後、境内にて記念撮影。
境内

岡野大先達さんと記念撮影。
仁王門を出たところで、71番、弥谷寺(3月13日)にお会いした大先達の岡野先生にバッタリ。
感激で涙が出ました。
ご一緒に記念撮影。
岡野大先達さんと


仁王門下のお店の人から、お疲れさまでした。とお茶とお菓子をお接待して頂いた。
ありがとうございました。

より道 13 前山おへんろ交流サロン
AM9:40
大窪寺へ向かう道路沿いの「おへんろ交流サロン」に、より道休憩。

優しいお顔の館長さんが、先ずは一休みしなさいと、お茶とお菓子のお接待を下さった。

おへんろ交流サロン

道路沿いの看板。
へんろ看板

へんろ会館。
館内は資料展示室になっている。
展示室に入る前に広い休憩所や事務所、脇に綺麗に掃除が行き届いたお手洗いがあった。
へんろ交流サロン

資料展示室。
遍路資料展示室

資料展示室

館長さんが説明してくださいました。
資料展示室

資料展示室

百回以上回られ御朱印で真っ赤になった納経帖。
資料展示室

見覚えのあるお顔のお写真。
資料展示室

資料展示室

新潟県を見つけました。
回られた人の納め札が入っていました。
資料展示室

各県毎に納め札が入っています。
資料展示室

資料展示室

資料展示室

資料展示室

錦札。
資料展示室

資料展示室


87番 長尾寺(ながおじ)
AM9:00
87番 長尾寺(ながおじ)
天平11年(739)、道端の柳の木で聖観音像を彫り安置したのが始まりといわれている。
のちに、弘法大師が入唐にあたり唐での無事と成功を祈願し年頭七夜の護摩修行を行った。
帰朝後、入唐の大願成就を感謝し大日経一字一石の供養塔を建立した。
その後、度重なる戦乱に巻き込まれ焼失したが、不思議にも本尊だけは焼け残った。
江戸時代には高松藩主松平頼重により厚い庇護を受け、松平家の祈願所となった。
葵の紋が入った香炉や松平家、別邸の栗林公園から移築された東門が残っている。
頼重の命によって天台宗に改宗し隆盛を極めた。
本尊の聖観世音菩薩は当国七観音随一と称されている。

結願の寺、大窪寺への道標。
結願の寺への道標

境内中からの撮影した山門。
仁王門表の左右の柱に大わらじが奉納されている。
長尾寺山門

本堂前。
山門から広い境内、正面に本堂、右手に大師堂、その奥に薬師如来、左手に護摩堂がある。
長尾寺本堂

長尾寺本堂

松平頼重により立てたれた本堂。
葵の紋入りの丸瓦が残っている。
本尊の聖観音像はたびたびの火災にも無事で、秘仏として祀られている。
松平頼重は讃岐国の観音菩薩7体の中で随一とし、「当国七観音随一」と指定した。
長尾寺本堂

本堂に向かって右側に並んでいる。
大正初期に再建された。
大師堂

静御前の剃髪塚。
義経の愛妾、静御前は義経が亡くなった後、尼になるため剃髪した。
塚にはその髪が埋められている。
24歳で亡くなった静御前の墓はここから2km離れた願勝寺にある。
静御前の剃髪塚


1年に何人か不思議なことに、どこの門からも寺に入れない人がいるという。
激しい吐き気がしたり、めまいが起き、どうしても足を踏み入れることができないと。
逆に長尾寺を出るときも、なかなか出られないことがあるとか。
そのときは、それまで回ってきた札所の真言を唱えると出ることが出来るといわれている。

より道 12 平賀源内遺品館と旧邸
AM8:40
志度寺から5分ほどのところに平賀源内遺品館と旧邸があった。
中へは入らず、表から写真だけ撮らせてもらった。

平賀源内。
江戸時代の奇才といわれる平賀源内は享保13年(1728年)に香川県志度町に生まれる。
「聡明好学、読書算数、発明の才に富み、才智縦横、洒脱の奇風があった」(平賀源内先生顕彰会より)
長崎や江戸で医学・本草学・国学・洋学を学びその業績は多岐を極めている。
特に、「エレキテル(摩擦起電機)」の発明は有名。
また、油絵を再興したり、陶器(源内焼)を発表したり、伽羅木の櫛を売り出したり、浄瑠璃「神霊矢口渡」を発表したり、まさに天才的な業績を残している。

遺品館には「エレキテル」をはじめ、12歳の時に作って人を驚かせたという「御神酒天神」「源内焼」や杉田玄白との書簡などが展示されているそうです。
遺品館の左隣が旧邸で裏にはゆかりの薬草園もあるが、旧邸の内部は整備されていないそうです。

遺品館と旧邸

平賀源内銅像。
平賀源内銅像

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