アランと一緒に四国遍路。

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3月14日 80番 國分寺(こくぶんじ)
AM11:00 80番 國分寺(こくぶんじ)。
80番 國分寺(こくぶんじ)仁王門。
松の枝が横に伸びる立派な仁王門。
仁王門の屋根瓦には葵の紋が入っている。
國分寺仁王門

國分寺仁王門

國分寺仁王門

天平13年(741)聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する詔勅を出された。
弘仁年間(810~823)に弘法大師が堂字や本尊を修復し霊場に定めた。
國分寺

國分寺(こくぶんじ)境内と本堂。
みごとな枝ぶりの松が茂る広々とした境内。
全域が讃岐國分寺跡として国の特別史跡にされている。
寺域から創建時代の唐草文平瓦、蓮華文丸瓦、重弧文平瓦などの瓦が出土し、資料館に展示されている。
境内の左右に四国八十八ヶ所の石仏が並び、参道の右手には、十五の礎石が残る七重塔跡や金堂跡がある。
閻魔堂と鐘楼の間を抜け、弘誓橋を渡ると鎌倉時代再建の本堂がある。
國分寺境内と本堂

國分寺(こくぶんじ)本堂。
入母屋造りの本堂は前面と背面に桟唐戸が付いた鎌倉後期のもの。
本尊の千手観音菩薩、銅鍾とともに国の重要文化財。
國分寺本堂

納経所と一緒の大師堂。
大師堂へは納経所の中からお参りするようになっている。
中には線香や土産物などの売り場もある。
納経所と一緒の大師堂

國分寺の七福神。
香川県には、さぬき七福神があり、國分寺の七福神は紅一点の弁財天。
徳・福・美にご利益があるといわれている。
「古代インドの川の神様で豊穣の女神と言われ、知恵、芸術、音楽等、更に七福神唯一の女神として、財運、福徳を与える神として大変ご利益あらたかであります。」
弁財天の前の立て札にはと書かれています。
國分寺の七福神

國分寺の七福神

仏足石。
お釈迦さまのおみ足。
これを撫でて祈願するとさまざまな御利益が頂けます。
仏足石

AM11:40参拝を済ませ昼食休憩。
朝からお天気が悪く気温も下がり途中でミゾレのような雨が降り、参拝を済ませた頃から吹雪になった。
南国四国、春3月に吹雪きになり参拝の人たちや地元の人も驚いていた。
暑いのがの苦手なアランがきっと雪を降らせたのだろう。
アランちゃんの仕業だねー。とみんなに言われてしまった。

讃岐うどんのとても美味しいというお店に連れて行ってもらった。
店の前に行列が出来ている。
吹雪の中、寒い、寒いとガタガタ震えながら並んでいると、後に並んだ地元の人に、
「お遍路さんは、これも修行だよ。」と笑われてしまった。
そして、何処からきんさったね?と訊ねられたけど、寒くと思うように口が開かない。
見かねて、Oさんが福島県と新潟からお遍路さんにきんさったんよ。と言ってくれた。
それを聞いた地元の人が、
「新潟からなら、こんな雪慣れているがやろ。」と笑って言ってくれた(-_-;)
なに言うがやね。いくら雪に慣れてても寒いのは寒いきに。
まさか、南国に雪が降るなんて思わないがやろ~。。。
(土佐弁、こんなでよかったき?)
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3月14日 79番 天皇寺(てんのうじ)
AM10:35 79番天皇寺(てんのうじ)。
弘法大師巡錫のおり、日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの八十場(やそば)の泉の近くで霊気を感じ、泉のほとりにあった木で十一面観音菩薩を刻み、堂字を建立。
阿弥陀如来、愛染明王とともに祀り、妙成就寺摩尼珠院(みょうじょうじゅまにじゅいん)と名付けた。
保元の乱(1156)で敗れた崇徳上皇が讃岐へ配流され、長寛2年(1164)8月、崩御。
八十場の霊泉に御遺骸を約20日間浸したという言い伝えがある。
その後、二条天皇が上皇の冥福を祈り崇徳天皇社を建立し、天皇寺と改名した。
明治の神仏分離で崇徳上皇社と天皇寺は二分され、崇徳上皇社は白峰宮となった。
天皇寺

山門の代わりの石碑。
石碑

石碑

天皇寺鳥居。
崇徳天皇社の神宮寺であったので山門はなく赤い大きな鳥居が立っている。
駐車場から鳥居をくぐると参道正面に白峰宮、左手に本堂と大師堂が棟続きに並んで立っている。
天皇寺鳥居

白峰宮。
崇徳天皇の御霊を慰めるために建立されたという神社。
上皇崩御の際、毎夜のように東方に怪星が現れたので3代後の二条天皇がここに崇徳天皇社を建立したという。
その後、後嵯峨野天皇により荘園などが奉納された。
白峰宮

天皇寺(てんのうじ)境内。
天皇寺境内

天皇寺(てんのうじ)本堂。
本堂は江戸時代、松平家によって再建された。
本尊の十一面観音像は、8月の御開帳大般若法要の時のみ開帳される秘仏。
天皇寺本堂


3月14日 77番 道隆寺(どうりゅうじ) 78番 郷照寺(ごうしょうじ)
AM9:16 77番 道隆寺(どうりゅうじ)。
寺の開基は奈良時代と古く、この地一帯は和気氏の荘園だった。
桑畑で夜毎怪光を放つ桑の木があり、領主・和気道隆(わきみちたか)が矢を放つと乳母が倒れていた。
嘆き悲しんだ道隆は、桑の木で薬師如来の小像を刻み、御堂を建て供養した。
後に道隆の子朝祐(ちょうゆう)が伽藍を建立、道隆寺と名付けた。
その後、唐から帰国した弘法大師が薬師如来像を刻み、胎内に道隆の小像を納め本尊とした。
丸亀京極藩、京極左馬造公は幼少より盲目だったが道隆寺の薬師如来に祈願したところ全快したという。
「目なおし薬師さま」と呼ばれ全国から眼病平癒祈願に訪れている。

道隆寺(どうりょうじ)仁王門。
道隆寺 仁王門

道隆寺(どうりゅうじ)本堂と観音像。
参道沿いから本堂脇、裏門にかけて西国三十三ヶ所、四国八十八ヶ所など、日本全国の観音像270余体が立ち並んでいる。
道隆寺 本堂と観音像

道隆寺(どうりゅうじ)本堂。
本尊の薬師如来像が胎内にもう一つあることから腹ごもり薬師、二体薬師とも呼ばれ、50年に一度開帳される秘仏。
星曼荼羅図(重要文化財)を始め、智証大師の刻んだ五大尊(不動、降三世、軍茶利などの各明王)や弘法大師の筆によるといわれている五大尊画など文化財が多い。
道隆寺 本堂

道隆寺(どうりゅうじ)大師堂。
本堂に向かって右手、多宝堂と並んで立っている。
大師堂前に弘法大師とその前にひざまづき両手を差し伸べている衛門三郎の像がある。
道隆寺 大師堂

AM9:50 78番 郷照寺(ごうしょうじ)。
弘仁6年(815)弘法大師42歳の時、自ら尊像を刻み厄除けを請願したことから「厄除けうたづ大師」として信仰を集めている。
当時は真言宗で「道場寺」と称されていたので、ご詠歌には「道場寺」名が残っている。
鎌倉時代に時宗の開祖、一編上人により中興され、室町時代には守護大名の庇護を受け栄えたが戦国時代の兵火により伽藍を焼失。
寛文4年(1664)高松藩主・松平頼重により再興された。
その際、真言宗とともに、一遍上人にちなんで時宗の両宗派を奉持。
八十八ヶ所中で唯一の宗派を越えた寺。
寺名も道場寺から「郷照寺」と改められ、病気平癒の祈願寺として松平家代々に庇護され、本堂や客殿「観海楼(かんかいろう)」などが建築されている。
郷照寺

郷照寺(ごうしょうじ)本堂。
約400年前、江戸初期に再興され、平成11年に大修理が行われた。
屋根の形は、札所では珍しい奈良様式の本堂。
本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代の作で、県指定有形文化財。
郷照寺 本堂

郷照寺(ごうしょうじ)本堂。
郷照寺 本堂

郷照寺(ごうしょうじ)。
石段を登り大師堂へ。
郷照寺 境内

郷照寺(ごうしょうじ)大師堂。
本堂脇の石段を登った所に大正時代に再建された大師堂。
お堂の中に入れるよう開放してあるので大師像を間近で参拝できる。
郷照寺 大師堂

万躰観音洞。
参道脇の地下のお掌に3万体の観音像を納めた万躰観音洞。
万躰観音洞

観音像。
観音像

郷照寺(ごうしょうじ)庭園。
庭園の築山にある樹齢400年というホルト(モガシ)の巨木は文禄3年(1594)本島の信者が中国から苗木を持ち帰ったものといわれている。
樹高26m、幹回り約4mという大きさは日本有数で県指定自然保存物。
郷照寺 庭園

郷照寺 庭園

本堂前に6本の手を持つといわれる青面金剛と3匹の猿が座す庚申堂が立っている。
庚申待ちのために徹夜でおこもりをする堂字で、四国霊場でも珍しいもの。
人間の体の中にいる三尸(さんし)という霊物が庚申の夜、人が眠っている間に体から抜け出て、天に昇り命を司る天帝に罪を告げるという。
そのため、更新の夜、人々は庚申堂にこもり眠らず語り明かすという民間信仰があった。

*この話を聞いたとき、どこかで聞いたことがあると思った。
随分前に読んだ坂東眞佐子さんの本の中に似た話があったと帰ってから思い出した。

タヌキの神様「常盤明神」
昔、郷照寺に臨阿という心の優しいお坊さんがいました。
臨阿は都の大きなお寺に招かれて行ってしまうことになったのです。
そんなある日、臨阿は犬に追われていた子ダヌキを助け、傷の手当をし、大事に世話をしてから放してやりました。
臨阿が都に行ってから、戦争や飢饉で寺は荒れ、悪人がたびたび住みつこうとしました。
ところが、いつもタヌキのお化けが現れ、悪人たちをこらしめたといいます。
それからは、近くの信心深い人々によって寺は守られ、お参りする人も絶えませんでした。
以来、タヌキが寺を守ってくれたということで「常盤明神」という寺の守護神として祀られるようになってということです。
そのせいか、このあたりでは犬を飼うと災難が起こるという言い伝えがあるそうです。

9日目 3月14日 76番 金倉寺(こんぞうじ)
3月14日 
朝食を終え、着替えをしWちゃんとフロントで清算を済ませロビーでAさん、Oさんを待つ。
奥州のおじさんたちを探したが、朝早くに、こんぴら宮へ参拝と言っておられた。
参拝後、出発なさったのだろう会えなかった。
AM8:00少し過ぎ、Oさん運転の車到着。
風が冷たく気温が低い。荷物を積みに外へ出ると寒さでガタガタ震えた。
係りのお姉さん、ホテルの人たちが黄色いハンカチを振りながら見送ってくれた。

AM8:30
76番 金倉寺(こんぞうじ)。
弘法大師の姪を母に持つ、天台宗寺門派の開祖、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)の生誕の地として知られる。
智証大師の祖父・和気道善(わきどうぜん)が奈良時代初めに自分の名をとった善道寺を建立。
その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺を真似て伽藍を整備し、寺名を金倉寺(こんぞうじ)と改めた。
金倉寺

金倉寺(こんぞうじ)。
金倉寺

訶梨帝堂(かりていどう)。
本堂左手の智証大師ゆかりの鬼子母神堂(訶梨帝堂)。
智証大師5歳のとき、訶梨帝母尊(かりていぼそん)が現れ、大師への衛護を伝えたという。
訶梨帝母尊(かりていぼそん)とは鬼子母神のこと。
500人の子供の母親でありながら、いつも人の子供をさらって食べていたので、釈迦如来は鬼子母神が最も可愛がっていた末っ子を隠し、子供を失った母親の辛さを教え、後に仏の一つに加えたという。
訶梨帝堂

金倉寺(こんぞうじ)本堂と境内。
広い境内に楠の大樹が茂る。
正面の小高いところに本堂、右手に常行堂、客殿、庫裏、左手に訶梨帝母堂(鬼子母神)、弘法大師と智証大師の二人を祀る大師堂、鐘楼がある。
金倉寺本堂と境内

金倉寺(こんぞうじ)本堂。
本尊の薬師如来は穏やかな表情で見る者の心を和らげてくれる。
金倉寺本堂

願供養念珠(がんくようねんじゅ)。
願いを掛けながら引いて回すと叶うといわれる大きな念珠。
願供養念珠

金倉寺(こんぞうじ)大師堂。
中央に智証大師像と共に弘法大師像も安置している。
お二人は「讃岐の五大師」に数えられており「大師」の称号を得るということは、僧にとって最高の名誉。
「讃岐の五大師」には、お二人の他、弘法大師と同じ佐伯氏出身の道興(どうこう)、弘法大師の弟子、法光(ほうこう)、修験道の理源(りげん)の五人をいう。
金倉寺大師堂

乃木将軍妻返し松。
乃木希典(のぎまれすけ)の妻、静子夫人が会いに来たが、決して会おうとはしなかった。
途方にくれた夫人が、松の木の下で佇んでいたという「乃木将軍妻返し松」
明治31から34年(1898~1901)善通寺第11師団長として乃木希典が着任、金倉寺(こんぞうじ)の客殿で暮らしていた。
当時生活をしていた客殿の4室に、愛用の軍帽、肖像画、静子夫人からの手紙、収集していた石など、さまざまな遺品が保存されている。
通常は非公開。
乃木将軍妻返し松


3月13日 ことひら温泉・再会
AさんとOさんは、地元ということで自宅へ帰った。
明朝8時にホテルへ迎えに来てくれることになっている。
二人は自宅へ戻るので13日、14日は参拝が済んでから別行動と言われていた。

金刀比羅宮から琴参閣へ戻ったのは6時少し過ぎ。
大きなホテルの玄関入り口の作りは、”千と千尋のー”湯屋に似ていた。
フロント前を通りエレベーターに乗り別館へ行き、それからしばらく歩き又、エレベーターで7階の部屋へ。
Tシャッツを重ね着していったが、金刀比羅宮まで行って来たら体は冷えていた。
まずはお風呂だね、とWちゃんと浴衣に着替えタオルや小物を持って部屋を出た。
温泉の大浴場が1階で食事は3階の何とか間(部屋の名前は忘れてしまった(^_^;))と係りのおねえさんに言われていた。
部屋が7階でお風呂が1階、食事は3階。やっやっこしいねぇ。とエレベーターに乗り1階のお風呂へ向った。

エレベーターのドアを開いたら、なんと浴衣を着た奥州のおじさん二人連れにばったり!
お互いに、「わぁー!!」とか「ひゃー!!」とか大騒ぎ。
ずっと岩手ナンバーに会わなかったから、80番くらいまで行っているねと話をしていたのに。
おじさんたちは1階の何とかの間で食事で、部屋は同じ7階だって言った。
後でお邪魔しますー!とひとしきり近況報告をし別れた。

こんな偶然があるんだね。
1日に何度も会ったり、2,3日会わないでいたり又どこかですれ違ったり。

夕食を一緒にとりたかったけど、部屋が決められていたのでしょうがない。
お風呂から上がり、部屋へ戻りタオルを置いて又3階へ行き食事。
係りのおねえさんがこんぴらさんはどうでしたか、とか今日はどこまで参拝でしたかと聞かれたり、お給仕をしながらいろんな話しをしてくれた。
この琴参閣で2時間ドラマ、火サスの撮影があったそうだ。
木の実奈々さん主演の温泉女将の名推理(?)とか言う2時間ドラマ。
撮影風景や、従業員さんたちと一緒に並んでいる写真とポスターがエレベーターやフロントやあちこちに張られていた。

食事を済ませ、1階へ行くとおじさんたちが待っていてくれた。
イスに座り、持ってきたお札を交換。
話があっちへ飛んだりこっちへ飛んだり。
何番まで回ってきたとか道に迷ったとか、いつまでも話が尽きない。
おじさんたちは金刀比羅宮へは明日早朝に行くと言ったら、Wちゃんがあんな階段大したことはないよ。と笑いながら言っていた。

岩手から車で四国。
おじさんたちは同級生でお互いに章ちゃん、龍ちゃんと呼び合っている。
章ちゃんが自分の車で運転し四国は始めて、龍ちゃんは6年前に歩き遍路をなさったそうだ。
「龍ちゃんは自分が知っている道だから、この道でいいと言って走らせて、たどり着くと目の前に階段なんだよね。オレの車は階段を登れないよ。」
「歩く道と車の道が違っていたんだよ。オレが歩いた時はあの道でよかったんだ」
還暦を迎えた記念に、二人で回っているのだそうだ。

章ちゃんは奥州の㈱S観光バスの会長さん。
「会社を息子に譲ったら、会長職に追いやられてしまった。まだ々現役バリバリなのにオレを邪魔者にしている。暇だから四国遍路へ行こうと龍ちゃんを誘って来たんだよ。
龍ちゃんは歩き遍路で回ったから心強いと思ったけど、龍ちゃんの道案内があやふやで困る。
二言目にはオレが来た時は、と言うけどそれから何年経っているか、自覚がないんだよ」がはははー。

龍ちゃんは、般若、鬼剣舞、天狗、おかめ、ひょっとこ、能面など幅広く打ち続けておられるのだそうだ。
個展を開いたり、2004年にはオランダ国立民族博物館に「高野長英」の面を寄贈なさったと。

面打ちは、退職と同時に手がけるつもりだったが、その前にあらためて「精神修行を」の念に駆られ四国八十八ヶ所お遍路一人旅を決断。
奥さんの理解と協力を得て、退職の年、平成12年4月1日に旅立った。
同じ年の10月に2度目の旅を重ね、徳島、高知、愛媛、香川の順に八十八ヵ寺、約1200kmの道程を通算56日間かけて踏破した。
と語ってくれた。

どこでどんな縁と出会うのか。
出会ったことが縁なのだ。
一期一会。
四国へ来なければ絶対に会わなかった人たち。
これもお大師様の巡り合せ。前世からの縁なのだろう。
出会うように理ができていた。

豪放磊落を絵に描いたような章おじさんと真面目一徹に見える龍おじさん。
幼馴染で同級生。
いいなぁ。こんな風に年を重ね、誰にも迷惑を掛けず、好きなことがやれる。
私は何年先、何十年か先、こんな風な生き方をできるだろうか。
好きなことを言える友達がいるだろうか。
一緒に旅をする仲間がいるだろうか。

とても素敵な、ちょいワルおじさんと再会した、ことひら温泉・琴参閣の出来事でした。

ことひら温泉・琴参閣。
すこし、千と千尋の湯屋に似ているでしょう。
ことひら温泉 琴参閣

ことひら温泉 琴参閣

ことひら温泉 琴参閣

ことひら温泉 琴参閣


知ったかぶり その7
金刀比羅宮。
金比羅神宮、正式には金刀比羅宮(ことひらぐう)という。
像頭山(琴平山)にある。
四国の五街道は、かつてすべて金刀比羅宮に通じていた。
瀬戸内海をゆく船からも山の勇姿が望まれ、船行の目印になっていた。
祭神は大物主命で、海の守り神。
後に相殿に崇徳天皇を合祀する。

街の中心部の入り口から本宮まで785段、さらに奥社まで583段ある。
境内までの参道の両側に旅館や土産物屋が軒を並べている。
大門から本宮までの間に円山応挙の障壁画で名高い表書院や重要文化財の旭社(あさひのやしろ)、本宮が建つ。
応挙の作品、50点が重要文化財。
学芸参考館には洋画家の先駆者、高橋由一の名作が28点展示されている。
社務所の近くにある宝仏殿には、金刀比羅宮に奉納された絵馬、書画、骨董、刀剣など多数収蔵されている。
清水次郎長の子分、森の石松が献納したという刀も残っている。
本宮から眼下に讃岐平野が広がっている。

最近注目の旧金刀比羅大芝居の金丸座の看板、幟が目に付く。
金丸座は江戸時代末の劇場建築で現存する最古の劇場。
昭和45年、重要文化財に指定され、10年ほど前に琴平山麓に移築復元された。
舞台、桟敷、照明などすべて江戸時代の形を残している。
移築以来、中村吉右衛門、勘三郎、勘九郎、松本幸四郎らがこの舞台を踏んでいる。
公演は春の年一回、数日だけ。

歴史。
初め、大物主神を祀り、往古は琴平神社と称し、中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀する。
その後、明治元年(1868)に神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止されて元の神社に復り、同年7月に宮号を仰せられ、金刀比羅宮と改称。

大物主神。
大物主神は、国造りの神様として、象頭山の金刀比羅宮に祀られている。
大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、顕国魂神(うつしくにたまのかみ)など、多数の名前を持つ神様。
大物主神は、万物を司る神名の通り、五穀豊穣や産業、文化などの繁栄と、国や人々の平安を約束してくれる神様。

崇徳天皇。
崇徳天皇は名前を顕仁(あきひと)、鳥羽天皇の第一皇子として誕生。
後に第75代天皇として即位。
後に讃岐院とも称されたが、天皇になられてから18年後に起きた保元(ほうげん)の乱(1156年)に敗れ、既に即位されていた崇徳天皇は、無念の想いを胸に讃岐の地へ配流。
後の9年の歳月を上皇は讃岐で過ごしたが、長寛2年(1164)、病に倒れ、帰京の夢を果たすことなく配流先の讃岐の地で崩御。御年46歳。
上皇が崩御された翌年の永万元年(1165)、上皇の神霊を祀る。
崇徳天皇が金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切り参籠(おこもり)されたことから、断ち物の祈願所としても信仰されてきた。
病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切り、事が良縁に結ばれるといわれている。

より道 10 金刀比羅宮
3月13日。
PM4:45 ことひら温泉 琴参閣到着チェックイン。
部屋に荷物を入れ、大急ぎで着替え、Wちゃんの念願だった金比羅神社へ。

ホテルからしばらく歩くと琴平駅が左手に見えた。
右手へ曲がると参道になっている。
遅い時間のせいか参拝客もまばら、参道の両側のお土産屋さんも店じまいを始めていた。
PM5:00
本宮まで785段の階段を登る。

いままで参拝してきた寺の急な石段からみたら楽チンと思うくらいの石段だった。
高校生の男子のグループがひょいひょいと登っていく。
その後をついて登っていった。
金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

足が痛いと言っていたWちゃん、遅れながらだったけれど本殿までたどり着いた。
少し休憩し、本宮にお参り。
奥社までは583段ある。本宮まででいいね、ということにした。
金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

金刀比羅宮

青空が広がり、四国の山並み、四国の風景を眺め、ここまで来れたことに感謝。
来てよかったね。とWちゃん。
本当に来てよかったと思った。
金刀比羅宮

金刀比羅宮


PM6:00琴参閣へ戻りお風呂。
PM8:00夕食。

75番 善通寺(ぜんつうじ)
PM3:40
五岳山(ごがくさん)誕生院(たんじょういん)総本山 善通寺(ぜんつうじ)
弘法大師誕生の地。真言宗善通寺派の総本山。
高野山の金剛峯寺、京都の東寺と並ぶ弘法大師三大霊跡のひとつ。
広大な寺域は東西二院に別れている。
唐から帰朝した大師は、先祖の追悼供養のため父・佐伯善道(さえきよしみち)の邸跡、大師生まれ育った地に寺を建立。
大師が恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から密教の全てを伝授された、唐の青龍寺を模し、6年の年月をかけて弘仁4年(813)に七堂伽藍を完成させた。
寺号は父の名前に、山号は西院の背後にそびえる香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の五峰にちなんでいる。
寺は東院と西院とに別れ、東院には、金堂(本堂)・五重の塔・釈迦堂・五社明神などがある。
西院は、誕生院と呼ばれ大師個人にまつわる空間で、仁王門を入ると正面に御影堂が建ち、地蔵堂、本坊、宝物殿などがある。
御影堂は、礼堂、中殿、供養殿、奥殿の四殿からなり、大師は奥殿で誕生したといわれている。

済生橋。
済生橋

済生橋を渡り寺内に入る。
西院から正寛門望

東院・五重の塔。
江戸末期から明治初期に再建された。
五重塔

東院・薬師堂(本尊)。
東院 薬師如来石碑

東院・金堂(本堂)。
貞享年間(1684~87)の金堂再建の際。運長が刻んだ本尊の薬師如来像、弘法大師が弘仁4年(813)に刻んだ薬師如来像は、胎内仏として祭られている。
善通寺本堂

西院・御影堂(大師堂)。
善通寺大師堂

西院・御影堂(大師堂)の額。
「弘法大師誕生の場」と書かれている。
御影堂(大師堂)の額

西院・御影堂地下の戒壇巡り。
約100mの真っ暗闇の中、左側の壁を伝って1周する。
「悪業のある者は出られない」といわれている。
中央の弘法大師が生まれたという場所に祭壇があり、再現した大師のお声を聞くことができる。
戒壇巡り

西院・回路。
回路より大師堂望

西院・回路。
回路

西院

西院

西院

西院・正寛門。
正寛門

正寛門より済生橋。
正寛門より済生橋

済生橋。
済生橋

72番 曼荼羅寺 73番 出釈迦寺 74番 甲山寺
PM2:35 72番 曼荼羅寺(まんだらじ)
曼荼羅寺(まんだらじ)境内と本堂。
山門をくぐると川が流れ、石橋を渡ると左手に水場から大師堂、正面に本堂。
曼荼羅が創建されたのは、6世紀末の推古期、佐伯家の氏寺として建立された。
当時は世坂寺(よさかじ)と称していたが、大同2年(807)、唐から帰国した弘法大師は亡き母の菩薩を弔うため、青龍寺を模して伽藍を建て、大日如来を刻んで本尊とした。
この時、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界(たいぞうかい)の曼荼羅も安置し、寺名を曼荼羅寺と改めたと伝えられている。
曼荼羅寺

曼荼羅寺(まんだらじ)本堂。
本堂の中は、仏教の宇宙観を具体化した曼荼羅空間が広がっているという。
「曼荼羅」とは、真言密教の根本を成すもので、大日釈迦を中心に輪を描く仏の世界を体系的に図示したもののこと。
それにならい、本堂の中心には大日如来を安置している。
本堂の格天井の内陣には天空を意味する二十八宿の星座、外陣には法界の壮厳花である暈繝(うんげん)彩色の花が描かれている。
曼荼羅寺本堂

曼荼羅寺(まんだらじ)大師堂。
曼荼羅寺大師堂

曼荼羅寺(まんだらじ)境内。
曼荼羅寺境内

民家の間を通り約500m。徒歩5分。
PM3:00 73番 出釈迦寺(しゅつしゃかじ)。
我拝師山(がはいしざん)を背にした山門。
鐘楼門をくぐると正面に本堂、右手に大師堂。
出釈迦寺山門

寺名の石碑と弘法大師像。
出釈迦寺寺名の石碑と弘法大師像

出釈迦寺(しゅつしゃかじ)本堂。
出釈迦寺本堂

我拝師山の中腹に建つ奥の院。
奥の院遥拝所にある石碑には、釈迦如来と天女の姿と捨て身の大師の図が刻まれている。
奥の院の「捨て身ヶ嶽」へは寺から1.8km上がったところにあり、釈迦如来、不動明王、大師像が安置されており、讃岐平野が一望できる。
奥の院禅定

弘法大師7歳の時、
「仏門に入って多くの人々を救いたい。この願いが叶うならば釈迦如来よ、現れたまえ。もし、願いが叶わぬならば、一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と断崖に身を投じた。
すると釈迦如来と天女が現れ、大師を抱き止め、「一生成仏」と誓願成就を告げられた。
大師が身を投げた岩場は捨身ヶ嶽禅定(しゃしんがたけぜんじょう)と呼ばれている。
奥の院遥拝所

奥の院の身を投げた断崖「捨身ヶ嶽」(しゃしんがたけ)。
出釈迦寺(しゅつしゃかじ)境内から、急坂を50分ほど上がった先の捨身ヶ嶽禅定(しゃしんがたけぜんじょう)は、弘法大師が虚空蔵菩薩像を刻み、求聞持法(ぐもんじほう)を修めた場所であることから求聞持院(ぐもんじいん)の院号がついた。
虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える法を求聞持法といい、記憶力を得られるという。
虚空菩薩像を拝むと学業成就や物忘れにご利益がある。
奥の院捨身ヶ岳禅定

74番 甲山寺(こうやまじ)山門。
甲山寺(こうやまじ)は甲山を背にして田畑の 所々に民家のある田園風景の中にある寺。
近くには弘田川が流れ、この辺りー帯は弘法大師が子供の頃に遊ばれた大師の故郷であるといわれている。  
本尊薬師瑠璃光如来に因んで名付けられた瑠璃光橋を渡ると山門。
門をくぐると正面、 石段を上ったところに本堂、右手に庫裏が建っている。
甲山寺山門

甲山寺(こうやまじ)本堂と境内。
本堂左の石段を上ったところに鐘 楼、大師堂があり、大師堂横の岩窟は間口2.5m、奥行3mほどあり、奥に弘法大師が自ら刻んで安置したと伝えられる毘沙門天石像が安重されている。
甲山寺本堂と境内

甲山寺(こうやまじ)本堂。
弘仁12年(821)、嵯峨天皇の勅願により満濃池(まんのういけ)修築の別当に任ぜられ、工事の成功を祈願して薬師如来を刻む。
難工事を3ヶ月で完成させ、朝廷から贈られた報奨金のの一部で甲山寺を建立、薬師如来を本尊とし安置した。
甲山寺本堂

本堂から左手の石段を上ったところにある大師堂。
黒衣をまとった大師像が祀られている。
甲山寺大師堂


Wちゃん感激の記念撮影。
納経を済ませ駐車場へ行くと、隣に止まっていたバスへ団体さんの一行。
その中に、Wちゃんがお鈴を落とし拾って下さった(十夜ヶ橋で会った)若いお坊さんがおられました。
Wちゃんは感激しやはりご縁があったのねと、若いお坊さんの手をいつまでも握り締め、何度もなんどもありがとうと言っていました。
何日も会わないで、またひょこり何処かのお寺で会う。
こんな不思議なご縁を何度も体験しました。
Wちゃんとお坊さん

若いお坊さんの一行と別れ、善通寺へ。
甲山寺から約1,5km。車で直ぐでした。
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