アランと一緒に四国遍路。

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とらまる公園・四国村・津田の松原・ドルフィンセンター
10月24日 


9時半、與田寺の参拝納経を終えて三本松ローヤルホテルに向かった。
国道129号線を北上、国道11号線に出て徳島方面へ。
東かがわ署の交差点を右折した高台にヨーロッパ調の洒落た建物が見えた。
與田寺からホテルまで10分ほど。

1階のフロントに行き予約はしてないが宿泊できますか?とを尋ねるとOK。
食事は別、¥7,000-料金前払いをして宿泊者カードに記入。

荷物を預かってくれますか?着替えたいのでトイレを貸してください、とお願いするとこちらで着替えが出来ますとフロント前から右手の階段を下りた部屋へ案内してくれた。
和式の大広間のような部屋で白衣ズボンを脱ぎ、GパンとTシャッツに着替えショルダーバックを出して荷物の入れ替え。
フロントに戻り、それではお願いしますとザック、菅笠、金剛杖を預かってもらった。
お荷物をお預かりいたしました。チエックインは4時からです、行ってらっしゃい。とフロントの女性が声を掛けてくれた。

お待たせしました、予約ナシでも大丈夫でした、荷物も預かってもらいました。
駐車場で待っててくれたOさんに報告。
「よかったね、此処まで来るお遍路さんも観光客もいないし今時のホテルは空いてるのかもね。haruさんの行きたいところはー?」
じゃ、先の大内高速バス乗場までどのくらい掛かるのか時間も確かめておきたいので最初にとらまる公園でもいいですか?

ホテルから5分くらい、とOさんの言ったとおり大内高速バス乗場まで5分で着いた。
高速バス乗場の真向かい、車道の坂道を上がって行ったところに18ヘクタールの広大な敷地にある、とらまる公園は文化・スポーツ・レクリエーション機能を併せ持つ総合施設。
名前は公園が名峰虎丸山を望む丘陵に展開するところからとOさんが教えてくれた。

とらまる公園
10:00
10:00 とらまる公園
公園内には体育館、キャンプ場などの他、全国的に珍しい公立の人形劇場「とらまる座」や体験型人形劇ミュージアム、中世ヨーロッパの街並みを約1/2にしたミニチュア児遊館などがある。
とらまる公園
公園内を1時間くらい見て回り少し休憩して高松市内へ出る。
11号線を西に向かっているのだが、どの辺りを走っているのか全々わからない。
国道の標識を見てると、大きな交差点に「→国分寺」が案内があった。

あ~!Oさん、ほら、国分寺だって。
車だと此処から80番へ行くんですね。
国分寺から白峯寺の遍路道、とってもきつかったんですよ~。。

岡山のKさんと汗を流しながら登った急坂を思い出す。
「あそこはさぬきの遍路転がしと言われてるんだよね。きつい道だったでしょう。」
思い出しても息切れがします(笑)
山道の途中でハスキーがおじさんと寝転んでいたんですよ。
「きっとアランちゃんがそのワンコの姿を借りてharuさんに会いに来たんだろうね。」

車の中から標識を見ながら電気屋さんがあったら止めてもらおうと思っていた。
昨日大窪寺に着いたとき、デジカメの1GBのSDカードが一杯になっていた。
予備にもう1枚持ってきていたので取り替えようとしたら、予備は256MBのSDカード!
家には2GB、1GBが他にもあったのに・・・
よりによって一番小さい、使ってもいない256MBを間違えて持ってきていた(涙)
後わずか数枚しか撮れない…

電気屋さんは見つからなかった。
Oさんに言えば探しに走ってくれるだろうが2日間も付き合ってもらって、これ以上我が儘はできない。
何か買う物があるの?と聞いてくれたがなんでもない、と笑って誤魔化した。
写真なんてなくても、私の中には沢山の思い出がある。
見てきた風景をいつまでも忘れないでいよう。
記憶の中にいつまでも覚えておこう。

11時過ぎ、私が肉が食べれないのを知ってるOさんは落ち着いた和食のお店に連れて行ってくれた。
靴を脱いで店内に入る。
案内された奥の座敷。
中庭が見渡せテーブルの下が掘りコタツのようになっている。
座布団に座り足をテーブルの下に入れる。

Oさんがうどんは食べ飽きたでしょう、と笑いながら豪華な「さぬき御膳」を注文してくれた。
食後のコーヒーを飲み、1時間ほど休憩。

昨日の今頃は女体山を登っていた。
川○さんはどの辺りだろう。
吉○さん、今治さんはどの辺りを歩いてるだろう。
今頃はお昼を食べてるだろうか。

次は何処へ行く?と聞かれ、
四国村って遠いですか?歩いてる途中で「四国村」の看板を見た、とOさんに話した。

国道11号線を西へ車は向かっている。
あ~!見覚えのある景色!
国道沿い右手に屋島ローヤルホテルの建物。

私、21日は此処に泊まったんですよ!
「四国村は屋島の登リ口にあるんだよ。」
わぁ!懐かしい~!この道ですよ。あのホテルから此処を通って屋島寺に向かったんですよね。

夜食を買ったローソン手前の信号を右折。
一昨日の朝、歩いた屋島寺への道。
琴電の踏切を越え屋島寺への登リ口とは反対の右の車道へ上って行く。
坂を上ったところに駐車場。
駐車場向かいに民芸風の建物の土産物店と、うどんのわら屋。
わら屋さんも有名なうどん屋さんだそうです。

四国村
入場料、ギャラリーセット券一般¥1,000-。

四国村のパンフより

【来たことのある、はじめての場所】
日本の原風景
ふるさとに出会える場所。

昔の暮らしが、先人たちの知恵が息づいている―
それが「四国村」です。
四国各地から移築された民家33棟が当時のままの姿で復元され、屋島の南山麓の林やお花畑の中に点在しています。
その一画に自然と調和した小さな美術館があり、美との語らいがあります。
四国村は忘れかけていた
日本のふるさとに出会える場所です。

四国村入り口
13:30
四国村
祖谷のかずら橋
徳島県祖谷地方は、けわしい山に囲まれた渓谷で四国の秘境と呼ばれる。平家の落人村としても知られている。
深い谷間を流れる急流が、村の交通を分断していた。いつのころか村人が、山に自生している白口かずらを編んで、つり橋をつくることに成功した。
これによって困難極めていた対岸との往来が容易になった。
いま残っているのは1本だけで、三年目ごとにかけかえられる。日本三大奇橋の一つで国の重要有形文化財に指定されている。
この橋は祖谷地方の技術保持者を招き、材料も本場のものを使って完成した。
四国村
中学生くらいの修学旅行生の女子数人がキャーキャー言いながら渡ってきたので、”恐かった?”と聞くと「恐かったですー!チョー恐かったです~!」と甲高い声で叫んでいた。
Oさんに、せっかくなんだからharuさんも渡っておいで、と言われたが、ダメ!私は吊り橋は大の苦手!
絶対渡れません!

祖谷の本物のかずら橋とは規模が違うけど再現されたかずら橋が池に渡されている。
四国村
「流れ坂」と呼ばれる坂道を上って行くと左手に祖谷かずら橋。
かずら橋を渡らず右手の流れ坂を上って行くと旧吉野家住宅。
大きく左に曲がる角に旧丸亀藩斤候番所。
その先から小径へ入った右手に小豆島の石蔵・消防屯所、その先に醤油蔵、麹室の中を見て進み、旧福井家の石蔵を見ながらアーチ橋を渡った先、

小豆島農村歌舞伎舞台
農村歌舞伎舞台は四国の村々に広く分布していた。
村人は祭りのときには激しい労働から解放されて歌舞伎に興じ、明日の活力を養った。
定員1,000人の屋外劇場。
四国村
屋外劇場から、旧山下家住、砂糖しめ小屋、旧丸亀藩御用蔵、旧河野家住宅、を見て
四国村ギャラリーに入って展示されてる作品の鑑賞。
ギャラリーでは、
【羽原肅朗×山口信博・形と素型展・「民芸とデザイン」の視点から】
が開催中。

美術館から山道を上って行くと旧大久野島灯台がありその先に旧鍋島灯台退息所の前にトイレ、ベンチがあり休憩場所になっていた。
トイレに行って自販機で水を買って休憩。
ここまでで1時間。
かなりの高さのところまで上っていた。
上ってきたって道にはバラや山茶花の花が咲いていた。
15分くらい休憩し上ってきた道とは別の道を通って下りた。

お土産屋さんと反対側にあるティールーム異人館でコーヒータイム。
神戸の異人館を移築した喫茶店。
室内の家具調度品すべてイギリスから取りよせた約1世紀半ほど前のものでとても素敵な店内。
入り口前に赤い電話ボックスと赤いポストがあった。

15:00
15:00 四国村
四国村を堪能し再び国道11号線へ出て東へ。
このまま三本松のホテルへ向かうと思っていたら、
「まだ時間はいいよね。ホテルへ戻る前にとってもいいところへ案内するよ。私のお気に入りの場所、津田の松原へ寄ってイルカを見てこよう。」とOさんが言った。
え~!イルカですか!!
私はホテルに戻るだけだけど、Oさんの時間は大丈夫なのだろうかと心配になって尋ねると、夕方までに戻ればいいからと言ってくれた。

やがて国道左手に「津田の松原(琴林公園)」の大きな看板が見えてきた。
「津田の松原はね1Km以上続く海岸沿いに約4000本の松が群生し、松原を形成してて白砂の海岸は夏は海水浴場として有名なんだよ。
瀬戸内海国立公園で白砂青松の名勝として日本の渚・百選にも選ばれているのよ。
歴史は鎌倉時代にさかのぼり、石清水八幡宮別当寺常薬寺の住職が防風林或いは燃料用として植樹したのが始めと言われていて16万㎡に4000本あまりの古松は樹齢600年におよび、老松の中には天然記念物にも指定されていた名松が数多くあったんだけど松枯れになって次第に姿を消してきているの。でも、”七福神の松”と言うのが一部残ってるんだよ。
そしてその先に、あるのがドルフィンセンター。haruさんは生き物が好きでしょう。生ドルフィンが見れるよ。」と教えてくれた。
津田の松原、ドルフィンセンター♪忘れないようメモ。

国道11号線から左に曲がり鶴羽幼稚園交差点を海側へ行くと絵の描いた防波堤が続いている。
その先に海が見える。
正面に巻き貝をイメージした建物。
「マリンレスト」と看板のあるレストランの手前で車を止め、そこから歩いて海の近くへ行ってみる。
海のほうからウエットスーツを着た若い女性2,3人が連れ立って歩いて来た。
髪が濡れている。
「こんにちは~。」
こんにちは。
海の中に浮き輪のようなもので仕切られた生簀のようなところにイルカの頭や体、ジャンプしてる姿がが見えた。
本物のイルカがいるんですね!
あそこで飼っているんですか?

「そうなんですよ。あそこで飼育してるんです。アニマルセラピーってご存知ですか?此処ではドルフィンセラピーが行われ障害児や自閉症の児童やいろいろ問題のある子供たちがイルカと触れ合って癒されるところなんですよ。
今はバンドウイルカ4頭とハナゴンドウイルカ2頭がいます。よかったら見ていきませんか?ウエットスーツの貸し出しもありますから海へ入ってイルカと遊んでください。」
海に入るんですか!?私、泳げないし・・・(^_^;)
「大丈夫、泳げなくても水に浮くウエットスーツもあるし、私たちトレーナーが一緒にいますから。」
haruさん、行っておいで!とOさんがけしかける。
イルカたちがいるところまで海の上に橋のようなのが浮かんでる。
あの橋を渡って行くんでしょう?!ダメ!ダメ!あの橋はとてもダメです・・・(^_^;)
此処から見ています。


NPO法人 日本ドルフィンセラピー協会・日本ドルフィンセンター。
(香川県さぬき市)

何年か前、この近くの港にハナゴンドウ鯨が迷い込み大変な人気者になり、遠方からも多くの人が一目見ようと寄せかけたことがあり、ドルフィンセンターが出来たのはそれがきっかけ。
気軽にイルカと触れ合えるところがあればと、地域の方が考えレクリエーション以外にも力を入れている。
ドルフィンセラピーとして障害児や障害者の支援、イルカを取り巻く環境を通じて、環境教育への啓発などの社会的な活動にも熱心。
このセンターではあくまでも、イルカと人との自然な触れ合いを大切にしているので餌を使ってイルカに何かをさせるようなことはしない。
わかりやすく言えば、イルカの遊びに任せるというイメージ。
イルカにしてみれば人間は友達が遊びに来たようなもの。
遊びなので、日によってイルカの好みは異なる。
背中に乗せるような遊びを好む日もあるし、一緒に泳ぎながら触ってもらうことを好む日もある。
「前は背中に乗せてくれたのに」と思うようなこともあるかもしれないが、イルカとコミュニケーションしながらイルカがどんな遊びを望んでいるか考え、そしてそれに合わせる。
これがイルカとの本当の触れ合いなのだ。
と、トレーナーの女性が説明してくれた。

とっても残念だったけど、プカプカ浮いてる橋(?)の上を歩く勇気もないし海に入る勇気もない。
トレーナーの女性たちに笑われてしまったけど此処で良いです、此処から見てますと断わった。
(帰ってからこのときのことはとても後悔した。せっかくイルカと触れ合ったり、遊んだり出来たのに…)

側の砂浜に白黒2頭のワンコ。
トレーナーさんのワンコでお仕事が終わるまで此処で待っているんだと女性の一人が教えてくれた。
この子たちと遊んでもいいですか?
「どうぞ、どうぞ。人が大好きな子たちですから好きなだけ遊んでやってください。」

イルカの代わりに砂浜に下りて人懐っこいワンコたちと遊んできた(^^♪
15:40 津田の松原

5時頃、津田の松原を後に三本松ローヤルホテルへ送ってもらった。
Oさんに1日のお礼を言い此処でお別れ。
「haruさん、明日は気をつけて帰ってね。また四国に来ることがあったら連絡してね。それじゃ元気で。また何時かね!」

Oさん、いろいろお世話になりました。
大事な時間を私のために使ってくださって本当にありがとうございました。
昨日から一緒に過ごした時間、忘れません。
とっても楽しかったです。
また来年、絶対に四国に来ます。
Oさんと出会えて本当に嬉しかった。心から感謝しています。
ありがとうございました!
Oさんもお元気で!!

フロントで荷物と鍵を受け取り5階の部屋へ行った。
風呂に湯を張る。

本家とあーちゃんpapaに今朝1番に與田寺に満願のお礼参り行き、昨日、大窪寺まで香川のOさんが迎えに来てくれて今日1日、與田寺から市内観光に案内してくれたと話した。
それは本当によかった、随分お世話になった香川の友達に、ちゃんとお礼を言ったのかと義母に言われた。

19時、1階のレストランで夕食。
食事を済ませて部屋に戻り、フロントに11時20分にタクシーを頼んでベッドに入った。

夕食代¥2,500-

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栗林公園
10月21日  



                  特別名勝 栗林公園

国の特別名勝に指定されている庭園の中で、最大の広さをもつ栗林公園は、松の緑濃い紫雲山を背景に6つの池と13の築山を巧みに配し、江戸時代初期の回路形式大名庭園として、すぐれた地割、石組みを有し、木石の雅趣に富んでいます。
春の梅、桜、夏の花菖蒲、蓮、秋の楓、そして冬の椿と四季折々の風物にも恵まれ、ここに咲く花々は、一歩一景といわれる変化に富んだ美しさを一層醸し出します。
長い年月をかけ、多くの人たちによって受け継がれてきたかけがえのない文化遺産をゆっくりご鑑賞ください。

◆開園日  年中無休(有料)

◆無料入園日 1月1日  元旦
          3月16日 開園記念日


公園の沿革

栗林公園の起こりは、元亀、天正の頃から当地の豪族であった佐藤氏によって、西南地区(小普陀付近)に築庭されたのに始まるといわれ、その後、寛永年間(1625年頃)讃岐領主生駒高俊公によって、南湖一帯が造園され、寛永19年(1642年)入封した松平頼重公(水戸光圀公の兄君)に引き継がれた。
以来5代将軍松平頼恭公に至る100年余の間、歴代の藩主が修築を重ねて延享2年(1745年)に完成されたもので、明治維新に至るまで松平家11代228年間にわたり、下屋敷として使用された。
明治4年(1871年)高松藩が廃され、新政府の所有となったが、明治8年(1875年)3月16日、県立公園として一般公開され、現在に至っている。

栗林公園パンフより。



公園入り口の受けつけで入園料¥400-を払い中に入る。
受けつけの人にトイレに行きたいので荷物を置かせてくださいと頼み場所を尋ねると快く、荷物は見てますから此処に置いて良いですよ、と言ってくれた。

トイレから戻り荷物ありがとうございました、と声を掛けるとゆっくり見てきてくださいと公園案内図を渡してくれた。
栗林公園マップ
パンフを見ながら日陰の所を選んで矢印の順路へ行く。
栗林公園
栗林公園。
栗林公園
栗林公園。
栗林公園
10分くらい見て回ったが暑さと疲れに東門の方に戻った。
特産品売り場の北館に入ると中は冷房も効いててベンチも置いてある。
ベンチに荷物を降ろし靴を脱いで裸足になった。
自販機で買った冷たいお茶とお接待で頂いた焼き菓子、マドレーヌを食べて休憩。

しばらくツアーお遍路さん、観光客で賑わっている園内を眺めていたが思い出して巡彩庵にお礼の電話を入れた。
○○です、11時半頃一宮寺に着いて先ほど1時半頃に栗林公園に着きました。
今、栗林公園で休憩しています。
「おぉ、それはそれは順調に進んでいますね。屋島ローヤルホテルまでは後6キロくらい。栗林公園でゆっくり休んで行かれたら良いですよ。」
そうします。
お世話になりました、奥様にもよろしくお伝えください。
いろいろありがとうございました。

それから、土佐清水のYさんと香川のOさんにも栗林公園で休んでいると電話を入れた。
栗林公園
休憩所で30分ほど休み出発。

14:15
14:15
東門受付で道を教えてもらう。

地図を出し、ここが栗林公園で、ここがホテルなんですと説明していると、こっちの方がわかり易い、と受付の中にいた人が観光マップを持って来て丁寧に教えてくれた。

「此処を北に向かって真っ直ぐ進み、JRを越えて大きな交差点二つ目のこの番町交差点を右を曲がって後は真っ直ぐです。」
ありがとうございました。

頂いた高松市観光イラストマップ。
高松市内マップ
緑に記された道路を北(地図、上方向)に向かいJR線を越え大きな交差点(白)二つ目(JR線より上に2つ目)を右。
受付の人がR11と赤いボールペンで記してくれた。



満濃池
10月18日  


                    満濃池

弘仁12年(821)に弘法大師の指導でわずか3ヶ月にして完成したと伝わる。
その後、何回かの決壊と修復を繰り返し昭和34年(1959)に現在の規模になり讃岐五市町の水田を潤している日本最大のため池。



満濃池。
満濃池
満濃池。
満濃池
満濃池。
満濃池
満濃池歌碑。

秋月晃煌阿讃の峯
古代悠久千余年
清漣の面に祥雲過ぐ
大師の遺徳満甕の水
空海の座り給へる石にさす
天つ日かけのほのかなるかも
半月水辺寥風の旅
遙か高野に余光を拝す
満濃池石碑
昔の人は海とも見える満濃池の水底に龍の姿を見たものであろう。
平安中期の【今昔物語】に満濃池の龍の物語が載せられている。

満濃池の龍(今昔物語)

【今は昔。
讃岐国那珂郡に万能の池といふ極めて大きな池有り。その池は、弘法大師のその国の衆生を哀れがるために築き給へる池なり。池の回りに遥かに広くして、堤を高く築き巡らしたり、池などとは見えずして、海とぞ見えけり。池の内、底に無く深ければ、大小の魚ども量無し、また龍の住家としてぞ有りける。】
満濃池の龍
八大龍王の鳥居と祠。
八大龍王鳥居
霊跡 おちょな岩。

【この前方下段に、石張りの平地があり、その地表の約五メートル下に、昭和五年まで使用されていた旧余吐の床盤がある。幅員が約七メートルで、その全面がちょうなで剃ったようになっていたので、人々はこれを弘法大師のおちょな岩と呼称して、大師霊跡の一つとして語り伝えてきた。
弘法大師は、金倉川の水をせき止めて、日本一の池を造るという難工事を成就するためには、岩盤を掘削して余水吐を造らねばならぬと、自ら設計して工事を監督され、短時間に満濃池を完成されたのである。
満濃池は、その後度々修復されたが、大師設計のアーチ形の築堤は今日まで継承され、大師がみ手を下されたおちょな岩の余水吐は、昭和五年まで、使用されてきたのである。

昭和五十七年十月 満濃池町教育委員会
             満濃池文化保護委員会

(註)所在地 大字神野 】
霊跡おちょな岩
堰堤のまわりは公園のような広さになっている。
広い芝生の上で親子連れが遊んだり小さい子供が走っている。
離れてカップルが写真を撮りながら戯れ、その向こうに東屋、側に自販機、トイレの建物が見える。
東屋まで遠いので木陰のベンチに腰を降ろし神野寺駐車場の自販機で買った冷たい水を飲んで休憩。

心地よい風がとおりスーッと汗が引いていく。
カバンからビニール袋を出し下に敷いて靴を脱ぎ裸足になった。
このまま横になって眠ったらどんなに気持ちいいだろう。
静かな水面をぼんやり見ていたら声を掛けられた。
「こんにちは。お遍路さんはどちらからですか?」
振り返ると少し離れたところに車が止まっていて作業服を着た人が立っていた。
車の横に「環境保護パトロール」の文字。

こんにちは。新潟から来ました。
「新潟とは遠くからご苦労さまですね。番外を廻っておられるのですか?」
いぇそういう訳ではないのですが何ヶ寺か廻ってきました。
神野寺と満濃池はどうしても来たかったのです。
「そうですか。此処まで来られるお遍路さんは少ないですね。」

此処まで来れて本当によかったです。
満濃池、とっても大きくて綺麗な池ですね。
「大きいでしょう。周囲21km、水深22m、貯水量1540立方メートル、潅漑用ため池としては日本一大きなため池ですよ。今年はまぁまぁの水の量ですが昨年も一昨年も水位はこんなになかったんですよ。底が見えて魚がアップアップしてましたよ。」
ここに魚がいるんですか?
「いますよ、昔は龍もいたんですから 笑」
そうですよね、こんなに大きな池を見たら龍が住んでいると言っても不思議じゃないですよね。
魚って鯉や鮒ですか?
「鯉は見たことはありませんが小魚がいっぱいいるんですよ、ブッラクバスの餌になってますがね。」
ブラックバスって誰かが放したんですよね?
「生態系が狂い困っていますね。一説によると釣具屋さんが最初に放流したとか 笑。」
そうなんですか!?あ~、それはありそうですね(笑)

「あくまでも一説によるとですよ 笑。お遍路さんはこれからどちらまで行かれるんですか?」
これから善通寺まで戻ります。赤門前のお宿に荷物を置いて空身で来たのですがちょっとしんどいので電車で帰ろうと思ってるんです。
「そうですね、駅まで2、3キロありますが、電車で帰られたいいですね。」
駅までそんなにありますか!
「この上の車道、山を降りて行くと右側にスーパー、その脇の道を入ったところに駅がありますよ。それでは気をつけて。」
ありがとうございました。

善通寺行きの電車が塩入駅で止まるのは1日何本もない。
時計を見ると1時を過ぎていた。
そろそろ出発しなければ。。。



内子町・八日市・護国の町並み
3月28日


           内子町・八日市・護国の町並み

NIKKEIプラス1(日経新聞)「散策したい蔵の街並み」(2006年9月23日)で西日本3位に選ばれた内子の町並み。

大村家住宅(重要文化財)、本芳我家住宅(重要文化財)、内部見学可能な上芳我邸(重要文化財)など、90軒にも及ぶ町家群の集まる通りは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

内子は古くから交通の要衝であり木蝋(蝋燭)や和紙の生産で栄えた。
旧街道沿いの八日町・護国地区には、江戸末期から明治・大正時代にかけて建てられた豪壮な商家・民家・土蔵などの建物が軒を連ね当時をしのぶ景観が約600mにわたり残されている。
 
 
【商いと暮らしの博物館】
視線を感じ振り向くとお店の中に人の姿。
近づいてみると。。。     
内子町並み

大正時代の薬屋。
番頭と丁稚はリアルなお人形でした。。。

明治の薬商「佐野薬局」の建物と敷地を内子町が買い取って、大正10年頃の商家の暮らしを再現、公開している。
帳場の主人の後ろのガラス戸棚には様々な薬ビン、養命酒や、赤玉ポートワインもある。
内子町並み

内子町並み

内子町並み

通りに沿って趣のある重厚な建物が並び当時木蝋(もくろう)の生産で財を成した豪邸が残っており、製蝋町の面影を残す町並みには浅黄色と白漆喰で塗り込まれた重厚な外壁が特徴の土蔵や、なまこ壁に出格子のある建物が続き漆喰彫刻や虫籠窓など一軒一軒が独自の工夫を凝らしている。
内子町並み

内子町並み

内子町並み

内子町並み

伊予銀行内子支店。
内子町並み

内子町並み





内子座
3月28日

             内子座


大正5年(1916年)大正天皇の即位を記念して、内子町の有志によって建てられた本格的な歌舞伎劇場。
瓦葺き入母屋造りの建物は、現存する木造芝居小屋としては県下最古のもの。
ホールとして活用後、老朽化のために取り壊されるところ町民の熱意で復元。
昭和60年(1985年)に改修され劇場(芝居小屋)として再出発。
現在では年間7万余人が見学し、1万6000余人が劇場活用。
約650人で劇場は一杯となる。


内子座・八日市・護国の町並み・道標。

内子は、古くから交通の要衝であり、木蝋(蝋燭)や和紙の生産で大いに栄えた。
内子道標

左の小路へ曲がったところに内子座。
内子座

内子座正面。
内子座

左・料金所。

開場時間:午前9時~午後4時30分
休場日:  年末年始5日間(12.29~1.2)
入場料:  大人 300円 小人 150円
(格安セット券有。20名以上団体割引)
内子座

木戸口。
内子座

回り舞台。
舞台中央を円形に刳り抜き回転させることのできる舞台。
場面の推移や変化する場面の対象を高める効果がある。

1階の枡席と舞台。
1階平席を方形に仕切った見物席。
かつては枡単位で売られていた。
内子座

花道。
舞台から吹き出て客席を貫通した通路。
客と役者が最も近づき交流できる場であり歌舞伎劇場の特色を最も表している機構。

記念撮影用のはっぴが用意されている。
内子座

すっぽん。
花道の七三の位置にある切穴のこと。
忍術使いや妖怪のたぐいがこの穴からせり上がる。
内子座

検察台。
内子座

シテ柱。
内子座

奈落入口。
急勾配の階段を降り石積みで築かれた地下通路に大掛かりな木造の装置。
内子座

奈落。
舞台や花道の床下の総称。

1階観客席と舞台の下に広がる地下。
内子座

回り舞台装置。
昔は人力で回り舞台を動かす仕掛けがあった。
内子座

二階には当時の文献や資料、道具が展示されている。

大向。
観客席の2階正面にある低料金の客席。
常連や劇通が多いので、「大向をうならせる」というと、芝居が上出来のことをいう。。
内子座





大洲城
3月27日


            大洲城



宇和島のおじさんたちの車で送ってもらい15分ちょっと大洲城に到着。
駐車場で降り、お礼を言って高台のお城への坂道を登って行く。
風が少し強く肌寒かった。

14:16
大洲城。
見事な層塔型四層天守閣。
唐破風,千鳥破風,下見黒板張りと白壁の対比が美しい2004年に地元の方たちの熱意で復元された。
14:16 大洲城

復元された天守内部に天守の木組みが展示されている。
大洲城

復元天守の内部。
大洲城 

大洲城 

天守の建築ジオラマ。
重機もない時代、大変な工事だったでしょうね。
大洲城 

大洲城 

使用した木材は全て国産材。
城郭建築特有の迫力ある木組みが見もの。
大洲城 

肱川を見下ろす天守閣からの眺め。

屋根瓦には寒さに強い岐阜県産の瓦を使用。
大洲城天守は破風が多く屋根を葺くのが難しく天守4層にある丸みを帯びた唐破風は職人の腕の見せ所。
大洲城 

大洲城天守内の吹き抜け。

階段はかなりの急勾配。登るときより降りるときの方が恐い。
大洲城 

富山県井波町の宮大工と地元の大工さんたちの見事な共同作業。
職人さんたちが息を合わせ木組みを完成させた。
大洲城 

天守閣に取り付けられる鯱瓦(しゃちがわら)。

天守閣に鯱を載せるのは城主の威厳を示すため、美観を発揮するため、という他にも火災除けの意味もある。
大洲城 

復元前のところも残っていた。
大洲城 

大洲城 

14:45
大洲城から下ったところに公園。
大洲城 

大洲城観覧時間
午前9:00~午後5:00
休日
12月29日~31日
観覧料
大人 500円 子人 200円




卯之町
3月26日

          卯之町
           西予市卯之町の町並み保存地区

  1549(天文18)年、領主西園寺実充が移転した城下町が起源。
  画一的な地割りと白壁などが残っている。

宇和島と大洲を結ぶ宇和島街道の宿場町として栄えた当時の町並みが残り白壁の商家などが200mほど続く。
間口4間半(約8m)に整然と仕切られた町屋は奥に細長く、奥行きは約50m。
白壁や卯建(うだつ)、出格子、半蔀(はじとみ)のある家などが幕末から明治の面影を伝える。
一階から二階までがつながったような縦長の卯建が独特。
中町の宇和島街道沿いに町並みが残る妻入の民家が連なる風景が特に見事。
 


16:00 卯之町

宇和先哲記念館。
卯之町

卯之町

卯之町

卯之町

卯之町

卯之町

二宮敬作の住居跡と女医イネ発祥の地。

説明書
文政10年(1827)父ドイツ人シーボルト、母其扇(本名滝)の間に長崎で出生、天保11年(1840)14歳から5年間卯之町で二宮敬作の指導により日本初の女医が誕生した。
安政元年(1854)同3年再度来卯。
敬作から一般医学、宇和島藩出仕の村田蔵六から蘭学を学び、産科医に成長した。
後、上京し宮内省御用掛など大きな足跡を残し、明治36年(1903)76歳で世を去った。
卯之町

卯之町

高野長英の隠れ家。
開国主義を唱えて投獄された後、逃亡した高野長英が1849(嘉永2)年に身を潜めていた建物で、県指定の史跡。
長英が潜伏していた2階部分のみが残っている。
卯之町

卯之町

卯之町




和霊神社
10月24日


        和霊神社

漁業を中心に広く産業の神として、中四国で「金比羅宮」と共に人々の崇敬を得、崇められている和霊信仰の総本山。
藩祖・伊達秀宗の家老で宇和島藩財政の再建、民力休養に努めながら反対派により暗殺され非業の死を遂げた山家清兵衛(やんべせえべえ)が祭神。
伊達秀宗の元で産業の拡充、民政の安定に手腕を発揮した清兵衛ですが、元和6年(1620)凶刃に倒れた。
その後この事件に関与した者が相次いで海難や落雷で変死したため、人々は清兵衛の怨霊だと恐れその霊を城北の地に祀ったのが和霊神社の始まりと言われている。



日本一の大きさ(高さ13m)の石造りの大鳥居。
神社の正面には、太鼓橋のかかった川を挟んで和霊公園があり、石造りでは日本一の大きさといわれる大鳥居が空に向かってそびえ立っている。
和霊神社

神社前の和霊公園では植木市や菊まつりなど、いろいろな催し物も開催され、懐かしい蒸気機関車や牛鬼をかたどった噴水などがある。
和霊神社

和霊神社入口。
和霊神社

和霊神社

和霊神社

水屋。
和霊神社

和霊神社

和霊神社

和霊神社本殿。
和霊神社

干支の大絵馬。
和霊神社

本殿。
和霊神社

和霊神社

石段を降りたところにある大銀杏。
和霊神社

和霊神社の参拝を済ませ時計を見ると4時。
商店街に戻りアーケードの中にある喫茶店で休憩。

アーケードの中を歩いて行くとジャコ天を作ってる小さなお店があった。
出来立てのジャコ天を買ってホテルに戻った。
夕食はジャコ天とビールかな(笑)

フロントに寄って鍵を受け取り部屋に戻る。
お風呂に湯を張り、荷物の整理。

お風呂に入りシャンプー。
浴衣に着替え土佐清水のYさんに明日帰りますと電話。
いつかきっと会いに行きます。

早々とベッドに入りテレビを着けたまま朝までぐっすり眠った。


宇和島市営闘牛場
10月24日


     市営闘牛場



坂道を登り切ると闘牛場があった。
登ってくる途中、10月28日(日)に闘牛大会開催のポスターがあちこちに貼られていた。

入り口脇の事務所におじさんがいたので、入ってもいいですか?と尋ねると
「日曜日に大会があるけど今日は何もないよ。」と言った。
自販機で茶を買って空っぽの闘牛場を見せてもらう。

闘牛場入り口。
市営闘牛場

闘牛場入り口

お弁当売り場。
闘牛場お弁当売り場

真ん中に直径20mの土俵。
この土俵で2頭の牛がにらみ合い闘う。
闘牛場

闘牛場

闘牛場

闘牛場

化粧まわし

イスに腰降ろし休んでいるとおじさんおばさんのツアー団体さんがドヤドヤト入ってきた。
事務所のおじさんがこれから闘牛ビデオやるから一緒に見ていったらいいよ、と言ってくれ団体さんと一緒に闘牛のビデオを見せてくれた。
(ビデオ鑑賞は15人以上で有料だったと思います)

おじさんおばさんの団体さんのおしゃべり話を聞いてると自分たちも闘牛を飼っている様子でした。
闘う様子を見ながら歓声を上げあの牛は根性があるとか追い込まれ戦意を失くした牛を笑ったり。
ビデオ鑑賞は30分位で終わった。
おじさんおばさんの団体さん、入ってきた時と同じように大きな声で話しながら引き上げていった。
闘牛場

ビデオの中で激しくぶつかり合っていた闘牛の姿が目に焼きついていた。
ビデオを片付けている事務所のおじさんに聞いてみる。

あんなに激しい闘いで牛は怪我をしないんですか?
怪我をした牛はどうなるんですか?
「そりゃ、あれだけの闘いだ怪我もするさ。怪我をした牛は体が治るまで大切に養生させるよ。闘牛は大切だからね。育てている人は自分の家族と同じくらい大事にしてるよ。」
それを聞いてホッとした。

おじさんが隣のイスに腰を降ろし話をしてくれた。

闘牛も人間の相撲と同様に前頭から横綱まで番付がある。
相撲の場合、横綱と前頭が対戦して前頭が勝つ、ということもあるが闘牛ではありえない。
横綱は横綱、大関は大関、同じ格付けで闘う。
もし仮に横綱と前頭を対戦させたとしても勝負にならない。
闘牛は八百長なしの真剣勝負の世界。
勝ち方、負け方にもよるが一度出場すると次回出場までは一定の休養期間が置かれ、手ひどい負け方をすると長期間にわたり出場が見合わされる。
闘牛は残酷と言う声もあるが闘うのは本能の命ずるところであり年に何回か出場するだけで普段はのんびりと暮らしている。

相撲には賞金が出るが闘牛では「給金」と呼ばれるファイトマネーが支給される。
全国的に金額はまちまちであるが宇和島は比較的安く、しかも敗れた方の牛に多く支払われる。
勝牛4割、負牛6割と決まっているがこれは敗れた方の牛主に対する慰めの意味があり宇和島ならではの伝統。

格闘時間は無制限とし、全力で闘わせ逃げた方の牛が敗けとなる。
逃げると敗け、という単純なルールではるが余力を残しながらも戦意を失ってあっけなく逃げる場合もあれば相手の鋭い攻めをかわしきれず竹矢来(柵)に激しく追い込まれ、電撃的に勝負が決着することもある。
一方、気力、体力の限りを尽くす持久戦もあり2時間40分という最長記録も伝えられている。

「闘牛を見たかったらねぇさんも日曜日に来たらいい。」
あ~。。。日曜日はもう宇和島にはいません…
勝っても負けても牛さんが怪我をしないといいですね。

お友達に空っぽの闘牛場の写メールを送った。




大観音
10月24日



      伊達藩鬼門鎮座 大観音



天赦園さがので1時間休憩。
宇和島城上り立ち門前を通り国道56号へ出る。
宇和島市内

歩道のうしおに。
毎年7月22日から24日に開催。
牛鬼は5~6メートル長い首に鬼面を着け、尻尾は剣、鬼頭・牛体のグロテスクな怪物で全身をシュロや赤い布で覆い悪霊を払う祭り。

牛鬼の起源は、喜多郡の大洲太郎が赤布を用い牛鬼の形をつくって猛獣の来襲を防いだのがはじまりとする説と、加藤清正が朝鮮出兵の時に敵を威圧するために作ったという説がある。
数十名の子供たちのブーブーという竹ぼらを吹き鳴らす音を従えて、長い首を打ち振りながら堂々と練り歩き、家ごとに首を突っ込んでは悪魔払いをする。
「うわじま牛鬼まつり」の牛鬼パレードは祭りの花形になっている。
うしおに

国道56号沿いの宇和島バスセンター。
バスセンター先から右へ2km、闘牛場へ向かう。
宇和島バスセンター

歩道のやつしか。
哀愁を帯びた旋律で優雅に舞う八っ鹿踊りは仙台をルーツとして南予一帯に広まった。

宇和島地方に古くから伝えられている八ツ鹿踊りは、既に350年余の伝統で仙台藩領にあり、太鼓を前に抱えて打ちながら踊るしし踊りは、宮城県各地に普及しており、その中で雄鹿たちが雌鹿をたずね探して遂に発見して喜ぶ「めじしかくし」という踊りが、宇和島に定着し現在に至った。
祭礼時には、12~13歳の少年8人が鹿の頭をつけ、その面から垂れた紅染の布で上半身を覆い手甲、脚半(きゃはん)草履ばきで胸の太鼓をトントコトントコと打ちながら舞う。
美しく哀愁を帯びた旋律でゆったりととても優雅に踊る。
やつしか

商店街のアーケードを抜け市営公園方向へ。
住宅地を通り坂道を登って行く。
暑さにヘロヘロになりながら登って行くと天満山遊歩道の標識。
近道かもしれないと降りて行く。
天満山遊歩道

降りた先の平場に大観音が建っていた。
伊達藩鬼門鎮座
除災・招福 大観音。
大観音

大観音に手を合わせぐるりと一回り。
山の中へ獣道のような細い道が続いている。
おじさんがいたので、闘牛場は此処から行けますか?と尋ねると
「この先は行けないよ。闘牛場へ行くなら上の道を上って。」と言われた。。。(-_-;)
降りて来た道をまた上り坂道を登る。
坂道


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