アランと一緒に四国遍路。

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知ったかぶり その7
金刀比羅宮。
金比羅神宮、正式には金刀比羅宮(ことひらぐう)という。
像頭山(琴平山)にある。
四国の五街道は、かつてすべて金刀比羅宮に通じていた。
瀬戸内海をゆく船からも山の勇姿が望まれ、船行の目印になっていた。
祭神は大物主命で、海の守り神。
後に相殿に崇徳天皇を合祀する。

街の中心部の入り口から本宮まで785段、さらに奥社まで583段ある。
境内までの参道の両側に旅館や土産物屋が軒を並べている。
大門から本宮までの間に円山応挙の障壁画で名高い表書院や重要文化財の旭社(あさひのやしろ)、本宮が建つ。
応挙の作品、50点が重要文化財。
学芸参考館には洋画家の先駆者、高橋由一の名作が28点展示されている。
社務所の近くにある宝仏殿には、金刀比羅宮に奉納された絵馬、書画、骨董、刀剣など多数収蔵されている。
清水次郎長の子分、森の石松が献納したという刀も残っている。
本宮から眼下に讃岐平野が広がっている。

最近注目の旧金刀比羅大芝居の金丸座の看板、幟が目に付く。
金丸座は江戸時代末の劇場建築で現存する最古の劇場。
昭和45年、重要文化財に指定され、10年ほど前に琴平山麓に移築復元された。
舞台、桟敷、照明などすべて江戸時代の形を残している。
移築以来、中村吉右衛門、勘三郎、勘九郎、松本幸四郎らがこの舞台を踏んでいる。
公演は春の年一回、数日だけ。

歴史。
初め、大物主神を祀り、往古は琴平神社と称し、中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀する。
その後、明治元年(1868)に神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止されて元の神社に復り、同年7月に宮号を仰せられ、金刀比羅宮と改称。

大物主神。
大物主神は、国造りの神様として、象頭山の金刀比羅宮に祀られている。
大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、顕国魂神(うつしくにたまのかみ)など、多数の名前を持つ神様。
大物主神は、万物を司る神名の通り、五穀豊穣や産業、文化などの繁栄と、国や人々の平安を約束してくれる神様。

崇徳天皇。
崇徳天皇は名前を顕仁(あきひと)、鳥羽天皇の第一皇子として誕生。
後に第75代天皇として即位。
後に讃岐院とも称されたが、天皇になられてから18年後に起きた保元(ほうげん)の乱(1156年)に敗れ、既に即位されていた崇徳天皇は、無念の想いを胸に讃岐の地へ配流。
後の9年の歳月を上皇は讃岐で過ごしたが、長寛2年(1164)、病に倒れ、帰京の夢を果たすことなく配流先の讃岐の地で崩御。御年46歳。
上皇が崩御された翌年の永万元年(1165)、上皇の神霊を祀る。
崇徳天皇が金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切り参籠(おこもり)されたことから、断ち物の祈願所としても信仰されてきた。
病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切り、事が良縁に結ばれるといわれている。
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知ったかぶり その6
弥谷寺(いやだにじ)。
昔から死霊が行くと信じられている弥谷寺のイヤという言葉は、恐れ、慎むという意味で、敬うのウヤ・オヤなどと同義の言葉。
徳島県の剣山麓の祖谷山(いややま)のイヤも同じ言葉で、奥深い山村、吉野川上流地方の人は古くは死霊のこもる山というイメージを持っていた。

弥谷寺は弥谷山の中腹にあり、その境内の至るところに岩壁、岩穴がある。
弥谷山の頂上は海抜約400m、寺のある辺りは約300mの樹木の茂った場所にある。
仁王門から大師堂まで行く途中の参道の両側は賽の河原と呼ばれ、地蔵が祀られ、小石が無数に積み重ねられている。
急な石段を登り切ったところには役行者(えんのぎょうじゃ)の石像があり、その左手に大師堂の岩窟がある。
大師堂は暗い岩窟の中に設けられ、昼でもなお薄暗い。
大師堂を出て本堂に行く途中にも岩穴があり、その辺りから本堂までの間を比丘尼谷(びくにだに)またはお墓谷と呼ぶ。
岩壁には弥陀三尊(みださんぞん)が彫られ、これは一遍上人が刻んだものだという。
比丘尼谷の入口にも岩穴があり、その前には岩壁を伝って流れる水滴を溜めるための水たまりがある。
弥谷山へ参りにきた人はここで経木(きょうぎ)に水をかけて死者の菩提を弔うことになっている。

この辺りから本堂までの間には多くの墓が並んでおり、途中の岩肌には五輪の石塔が無数に刻みこまれている。
本堂の本尊は千手観世音菩薩。
弥谷参りの風習はこの山麓のみならず、かなり広い範囲にわたって行なわれている。

弥谷参り。
人が死ぬと死者の霊をこの山に伴っていくのが弥谷参りという。
死後七日目、四九日目、ムカワレ(一周忌)、春秋の彼岸の中日、弥谷寺のオミズマツリの日などに、死者の髪の毛と野位牌(のいわい)などを持っていく。

三豊郡旧荘内の箱浦(詫間町)では弥谷参りを死後三日目、または七日目に行なうことになっている。
七日目の仏事のことを一一夜(ひといちや)という。
死者の髪の毛を紙に包んだものと死者が生前に着ていた着物とを持って血縁の濃い者が四人、六人といった偶数の人数で参る。
はじめに墓へ行き、
「イヤダニへ参るぞ」
と声をかけてから、その中の一人は後向きになって背に負う真似をする。
そして背負う真似をしてから、8kmばかりの道を歩いて弥谷山まで行く。
弥谷山へ着くと、比丘尼谷の洞穴の中へ髪を納め、野位牌を洞穴の前へ置いてから水をかけ、着物は寺へ納める。

洞穴の前には小さい小屋があり、彼岸の中日やオミズマツリの日に経木に戒名を書いてもらい、その経木に櫁(しきみ)の枝で水をかける。
その後、一行は本堂・大師堂とお参りをしてから帰途につく。
山を下りて仁王門の前にある茶店に上り、一行は会食をする。
会食がすむと、後を(寺の方向)振り返らないで家に帰る。

一行が弥谷参りに行って留守になると、葬家の者は墓へ女竹(めだけ)を四本持っていき、四つ又にして25㌢四方の板で棚をかける。
その棚にふきんをつるし、白糸を通した木綿針をふきんに刺し白糸を垂らしておく。
弥谷参りから帰ってきた人は、すぐに家へは帰らず、まず墓へ行き、鎌を逆手に持ってその棚をこわし、後を振り向かずに葬家へ帰ってくる。そこでそろって本膳につく。

弥谷参りに偶数で行くというのは、帰りに死者の霊がついてくるのを防ぐためであり、帰りに仁王門の傍の茶店で会食をしてから後を振り向かないで帰ることや、家に帰ってから本膳で会食をするというのは、死霊との食い別れを意味する。
墓に設けた棚をこわすのも、死霊が墓に留まるのを嫌がり、再び死霊が家に帰ってくるのを防ぐための風習。
死んでから後に何年かたって、彼岸の中日やオミズマツリに弥谷山へ行くのは死霊に再会するためのものであるかもしれないが、死して間もない頃に行なわれる弥谷参りの行事は、明らかに死霊を家から送り出すための行事であった。

七十一番の弥谷寺参詣をおもな行事として、四国八十八ケ所寺の中で七十二番の曼荼羅寺、七十三番の出釈迦寺、七十四番甲山寺、七十五番善通寺、七十六番金倉寺、七十七番道隆寺を巡ることが春秋の彼岸の中日に行なわれているが、香川県の西部一帯ではこれを七ケ所巡りと呼んでいる。
七か寺の中で弥谷寺参りだけは欠かせないところから見ると、この行事は新仏のあった家では死者の霊を送り出すため、そうでない家では弥谷山にこもっている死霊に会いに行くためのものであった。
このような寺々をめぐる風習が、やがては四国八十八ケ所遍路の風習にまで広がっていく一因になったといわれている。

埋め墓と弥谷山。
弥谷山は死霊のこもる山であるが、それをはっきりと物語っているのは山麓地方から付近一帯に行なわれている墓制がある。
今ではそれは両墓制(りょうぼせい)と呼ばれ、死体を埋める埋め墓と死後一年とか二、三年目に建てられる参り墓(石碑)との二つの墓を有する墓制として知られているが、どちらかというとそれはそれほど古くない墓制であった。
死者の霊は弥谷山にこもるのだから埋め墓だけがあればよいので、石碑を建てる参り墓などは不必要なのだ。
それがもっともよく現われているのは、香川県三豊郡三野町の弥谷山麓の埋め墓にある。
芝生(しばり)の埋め墓は人里から200mほど離れた山の傾斜面にあるのだが、試みに山の下からその埋め墓を眺めると、埋め墓は点々として際限もなく上に向って伸びていて、そのずっと先の辺りは弥谷山の頂上である。
死者の霊はなんということなしにひとりでに弥谷山に上っていくようになっている。
この辺りでは参り墓を作る風習が土地によっては昭和の初期に始まったということを聞いたが、それは他地方からの影響で、もともと参り墓など作る必要はなかったといえる。
この地方に限っていえば、両墓制などというものがいかに新しいものであるかがよくわかる。

弥谷山には死霊の行く山としての信仰が深く、付近の住民にとってはもちろん四国の霊地を遍歴する者にとっても、どうしても立ち寄らねばならぬ霊場なのだ。

参考文書「巡礼と遍路」より。

知ったかぶり その5
3月11日 PM1:30 51番 石手寺(いしでじ)宝物館。
四国遍路ルーツと言われる衛門三郎。

衛門三郎ゆかりの「玉の石」をはじめ、1100余点の寺宝から常時約100点を展示。
いずれも開基以来の歴史を物語る貴重な品々ばかり。

石手寺は、四国お遍路の祖と言われる衛門三郎ゆかりの寺。
伊予の豪族越智玉純によって開かれて以来「安養寺」とされた寺号が、寛平4年(891)に「石手寺」に変わった。

12番焼山寺、衛門三郎伝説。
(知ったかぶり その2 丈杉庵(じょうしんあん)参照)
伊予・荏原の豪族衛門三郎は、托鉢の僧にむごい仕打ちをしたため、8人の子供を失う。
この僧が弘法大師だと知り、大師の後を追いかけたが巡りあうことが出来ず、21回目に逆回りをし、焼山寺で行き倒れになる。
その臨終の場に、大師が現れ衛門三郎の「伊予の領主に生まれ変わり、善政をしたい」という最後の望み聞き、「衛門三郎再来」と記した石を握らせてやる。

やがて伊予の領主、河野息利に男子が誕生したが、この子は左手を握ったままで開かない。
そこで、安養寺に連れていき祈祷をしてもらうと、手が開き石を握っていた。
その石には「衛門三郎再来」の文字が記されていた。

衛門三郎と刻んだ石は「玉の石」と呼ばれ、寺の名前を「石手寺」に代わり寺の宝として飾られている。

輪廻転生。前世。うまれかわり。リインカーネーション。
ずっと昔に観た映画を時々思い出す。
「死んでも必ず生まれ変わる。」
「前世の記憶を持っている。」
シネマのストーリーは殆ど忘れているのに、前世の記憶を持って生まれ変わるところだけが忘れられない映画。
もう一度見直したくて蔦谷へ探しに行くが見当たらない…
タイトルが違うのか、記憶違いか。。。

石手寺に行き、衛門三郎の話を聞いたとき”輪廻転生”を信じました。
必ず、来世もアランと巡りあえる。幾たび生まれ変わっても。

石手寺 宝物館。
石手寺 宝物館

宝物館 入り口

衛門三郎の生まれ変わりが握っていたという「玉の石」
赤子が握っていたには大きくないー?大人のグーの大きさの石ですよ~
こんなに大きな石を握った赤子を産み落とすのは大変だったろうなーって思ったりして。。。罰当たりですね…(^_^;)
衛門三郎 玉の石

衛門三郎 玉の石

八十八箇所のお砂。
一つ一つのお砂に触り、ここで霊所巡りができます。
四国霊場八十八箇所お砂場

宝物館にて


知ったかぶり その4
お遍路さんとしてのマナー

「十善戒」の心

お遍路さんとしての心得としては十善戒が有名です。
簡単にまとめると
〔一〕不殺生(ふせっしょう)
〔二〕不偸盗(ふちゅうとう)盗まない
〔三〕不邪淫(ふじゃいん)邪淫しない
〔四〕不妄語(ふもうご)嘘をつかない
〔五〕不綺語(ふきご)お世辞を言わない
〔六〕不悪口(ふあっこう)悪口を言わない
〔七〕不両舌(ふりょうぜつ)二枚舌を使わない
〔八〕不慳貪(ふけんどん)欲張らない
〔九〕不瞋恚(ふしんい)怒らない
〔十〕不邪見(ふじゃけん)不正な考えを起さない
となります。
いずれにしろ修行のためにお遍路をしているということを忘れてはいけないことです。
自分は観光旅行だとしても、周囲には仏道修行として巡拝している人がいること、そして自分もその一人ということ忘れてはいけない。

道中でのマナー

①杖は橋の上ではつかない。
(橋の下で休まれておられるお大師様の妨げをしないという遍路独特の戒め)
②杖より先に自分を足を休ませない。
(宿に着いたらまず杖の先を洗い、部屋の上座に立て掛ける)
③行き交う人や土地の人とは明るく挨拶を。
お接待は気持ちよく受け、お返しに納札を渡す。

お遍路さん同士のマナー

宿や道中で一緒になったお遍路さんに、お遍路に出た動機や、相手の家族、プライベートなことをあれこれ質問するのは慎みます。
悩みや苦しみを抱えて遍路旅へ出ている人は少なくありません。


四国の名園。

四国の名園といえば第一に栗林公園。
広大な園内には大小六つの池と十三の丘が造形され、繊細さと雄大さが見事に調和している。
四国は庭石の名産地。
阿波の青石は特に名高く、徳島市の千秋閣や半田町の多聞寺の庭には多くの青石が生かされている。
鎌倉時代の作で、青石による石組に見ごたえがある。
半田町の隣、美馬町の願勝寺は、規模こそ小さいがやはり鎌倉時代の様式をいまに伝える名庭で、京都の天竜寺と同じ手法の枯山水である。
境内には最近、美馬郷士博物館が完成した。
高知市内の五台山竹林寺の庭は、池泉鑑賞式の優しい雰囲気の名庭。
客殿の西部と北部に広がり、江戸時代初期の様式を伝える。
池泉奥の山畔部には枯滝や三尊石組が当時の姿のままに保存されている。


牧野植物園記念館。

五台山竹林寺(ちくりんじ)山門前に、高知出身の植物学者・牧野富太郎を記念した県立の牧野植物記念館がある。
博士の蔵書が納められ、化石や温室花、四季折々の植物が楽しめる。
牧野富太郎は文久二年(1862)の生れ。
小学校を中退し、独力で植物学を修め、膨大な植物を採取し、わが国の近代植物学の基礎を築いた。


「坊さんかんざし」の話の結末。

五台山竹林寺の僧、純信と五台山下の「いかけ屋」の娘お馬とのロマンスは結末は次のように伝えられている。
安政二年(1855)二人は駆け落ちして、讃岐で捕まり、純信は追放されて伊予川之江で寺子屋の師匠となり、お馬は須崎の庄屋お預けの身から、大工寺崎米之助の妻となった。

知ったかぶり その3 
弘法大師修行の地。室戸御蔵洞(みくろどう)
徳島方面からR55線、室戸岬入り口右側。

大師19歳のとき、室戸岬を訪れ、ここで修行し虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を成就した。
洞窟から見えるのは空と海だけであり、大師はこの地での悟りの中から空海の名に改められています。
この『虚空蔵求聞持法』は一定の作法に則り、虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるという修行です。
1日2回行うと8時間、100万遍唱えるには100日かかると言われます。
これを行うことによって、あらゆる経典が覚えられるという「超記憶術」。
ある日の明け方、明星(金星)が口の中に飛び込んだと言う神秘体験をしたそうです。
明星は虚空蔵菩薩の化身であると考えられていたことか仏と一体になったと言われてます。

御蔵洞(みくらどう)

自縛霊ではありません(爆)
御蔵洞(みくらどう)

御蔵洞(みくらどう)

映画「死国」にこの場所が出ていました。
御蔵洞(みくらどう)

御蔵洞(みくらどう)

御蔵洞(みくらどう)

御蔵洞(みくらどう)

御蔵洞(みくらどう)


知ったかぶり その2 
遍路道。
11番、藤井寺(ふじいでら)から12番、焼山寺(しょうざんじ)へ至る山道は「遍路ころがし」と呼ばれる険しい道が続いている。

12番焼山寺への遍路道

約16Km。ゆる足で8時間。
遍路道

遍路道

途中に大師お休みの長門庵、お加持水のある柳の水奥の院、大師堂のある流水庵、大師お手植えの杉の大樹がある。
遍路道

12番 焼山寺へ

「衛門三郎」(えもんさぶろう)
この人が四国遍路のルーツだと言われています。
天長年間(824~834年)伊予の国に衛門三郎という強欲非道な長者がいた。
門に立った僧に喜捨をせず、その托鉢の鉢を投げ捨てて割った。
鉢は八つに割れ、その翌日から衛門三郎の八人の子供が次々と死んでいった。
その僧が弘法大師だったと気が着き、懴悔発心、大師を追って遍路に出るが、20回巡っても大師に逢えなかった。
21回目に逆で巡り、阿波の国の第12番札所焼山寺で病気になり、亡くなる間際に大師に逢えたと言われています。
衛門三郎伝説

衛門三郎は葬られ、彼の杖が墓標として立てられた。
杖から芽が出て杉の木となった。
いま丈杉庵(じょうしんあん)には衛門三郎の墓があり、杖杉と呼ばれる大杉がある。
衛門三郎伝説


知ったかぶり その1
巡拝用品

袖着きのものは白衣(びゃくえ)袖のないを白衣は笈摺(おいずる)
背中に南無大師遍照金剛と同行二人が書かれています。
下は白のトレパン。
普通の洋服にGパンで動きやすい好きな格好でも構わないと思います。
白衣

輪袈裟(わげさ)と輪袈裟止め
略式の袈裟。白衣の上に首から下げる。
輪袈裟が、ずれないよう首の後ろに一つと前に止めました。
普通の洋服の上に輪袈裟を掛けて巡拝に来ている人もいます。
輪袈裟と輪袈裟止め

菅笠(すげがさ)
梵字が前、同行二人が後ろ。
迷故三界城(迷うがゆえに三界はしろなり 迷いのある身は魔の城のようなもの)
悟故十方空(悟るがゆえに十方は空なり しかし悟りを開けば仏の国に入れる)
本来無東西(ほんらい、東西無く)
何処有南北(いずくんぞ南北あらん)
大意「欲望から心身を清めて開放されれば悩みのない自由な境地が開かれる」
菅笠

「同行二人」「般若心経」刻まれている。
杖はお大師様の化身と言われ大切なもので取り扱いにも心をこめて。
宿に着いたら、先ず杖の先を洗い丁寧に拭き取り自分より先に休めさせる。
金剛杖

保管や飛行機などに乗せるときに使う。
飛行機では凶器扱いで手荷物に持ち込めません。
金糸、銀糸の錦の綺麗な布で出来ています。
杖袋

金剛杖と袋
金剛杖と杖袋

頭陀袋(ずたぶくろ)、山谷袋(さんやぶくろ)とも言います。
賽銭、経本、ロウソク。お線香、ライター、納め札、納経帖が入る。
他にアランとワンコたちの写真、アランの骨を入れた布袋、お財布、デジカメを入れていました。
頭陀袋・山谷袋

持鈴(じれい、もちすず)
澄んだ綺麗な音色。道中の魔除け、獣除けの役割。
頭陀袋に着けておきました。
持鈴

納め札。
本堂と大師堂に奉納するお札。
昔は木の札で打ちつけていたので札を打つと言う。
巡拝回数によって6種類あり、基本的には1回~白札、5回~緑札、8回~赤札、25回~銀札、50回~金札、100回~錦札とされている。
錦札や金札は薬や魔除け、御守りになると信じられていて、納札箱をあさったり、売りつける人までいるとか。
住所、氏名、年齢、日付。裏に願い事を書きます。
お接待のお礼として自分のお札を渡したり参拝者同士名刺代わりに交換したり。
納め札

コンパクトの経本。
経本

各札所で納経の証としてご宝印を貰うための帳面。
一生のお守りとして、白衣は重ね印と言い、二回、三回とお参りするたびに最初の同じ帳面、白衣に印を重ねていく。
納経帖

記念すべき1番 霊前寺のご宝印。
1番 霊前寺御朱印

高野山奥の院、金剛峯寺に詣で「満願成就」
高野山金剛峯寺にて満願

あーちゃんpapaの判衣。
判衣は八十八札所のご宝印を頂く白衣で洗ってはいけないので、丁寧に扱う。
ご宝印が高野山奥の院ですべて揃った判衣は家宝として冥土へ旅立つ晴れ着ともされる。
あーちゃんpapa用白衣

お数珠。普段使っている自分のお数珠を持って行きました。
お軸(納経軸)は家宝として。

トイレに行く時は輪袈裟、菅笠を取り金剛杖と一緒に外に置く。
食事の時も杖、菅笠笠、輪袈裟は車の中に置きました。

巡拝の順序
山門の前で本堂に向かって一礼する。
水屋で口をすすぎ手を洗う。
 (口をすすぎ左手から水を掛け次に右手に掛ける。)
鐘楼で鐘をつく。ただし朝が早い場合は迷惑となるので、避ける。
 (参拝後につく鐘を「戻り鐘」と言い、これは絶対やってはいけない。)
本堂の納礼箱に納礼や写経を納める。
(納礼にはあらかじめ住所、氏名、年齢、日付、願い事などを記入しておく。)
灯明、線香をあげ、お賽銭を納めて合掌。
(ろうそくは奥から、線香は真ん中から立てる。
線香は3本。お大師様、御先祖様、本人。私は前世、現世、来世の分かと思った。。)
火は他の人のろうそくから着けない。
自分の持ってきたマッチかライターで着け種火が有るときはこれを利用。
心を落ち着けて読経する。

大師堂に行き本堂と同様に参拝。
納経所で納経帳などに朱印をもらう。
(納経料は納経帳300円、軸500円、白衣200円)

読経
1・合掌礼拝 胸の前で合掌、三礼しながら
「うやうやしくみ仏を礼拝したてまつる」と唱える。

2・開経濁(かいぎょうげ)を一辺唱える。
「仏様の教えに今ここで会うことができました」という意味。
 開経偈(かいきょうげ)
  無上甚深 微妙法(むじょうじんじん みみょうほう)
   百千万劫 難遭遇(ひゃくせんまんごう なんそうぐう)
  我今見聞 得受持(がこんけんもん とくじゅじ)
  願解如来 真実義(がんげにょらい しんじつぎ)

3・般若心経を一返唱える。仏教えを262文字にまとめたもの。
  
4・各札所のご本尊の真言を三返唱える。これは本堂のみ。
  (例として1番長いご本尊の真言 36番、45番、54番。)
 「のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ
  そわたや うんたらた かんまん」
  呪文としか思えない…(^_^;)1回唱えると口が回らなくなります。

5・光明真言を三返唱える。これは真言宗の一番大事な仏である大日如来の真言。
「おん あぼきゃ べいろうしゃのう まかぼだらまに はんどま じんばらはらばりたや うん」
これも呪文…

6・弘法大使の名前である御宝号を三返唱える。
「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」

7・回向文を一返唱える。仏道が成就することを願うもの。
「願わくは此の功徳を以って、遍く一切に及ぼし、我らと衆生と、皆共に仏道を成せん」
  (ねがわくはこのくどくをもって、あまねくいっさいにおよぼし、
   われらとしゅじょうと、みなともにぶつどうをじょうぜん)

8・「ありがとうございます」と述べて、合掌一礼してから山門出る。

読経の正式は、
普礼真言→祈願文→懺悔文→三帰→三竟→十善戒→発菩提心真言→三眛耶戒真言→開経偈→
般若心経→十句観音経→光明真言→十三仏真言→札所本尊真言→舎利礼→礼願→
大金剛輪陀羅尼→御詠歌→廻向文の順らしいです。

私たちは省略して、開経偈→般若心経→札所本尊真言→ご宝号→廻向文。これでも良いそうです。
御法号、南無大師遍照金剛だけ唱えている参拝の人もいます。
ようは気持ちの問題。自分のやりたいように自分のお遍路を。
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